ロースクール授業参観記~その8

教壇から、教員がまず不法行為について説明している。

不法行為の成立要件のひとつである責任能力について、なぜこれが求められているのかという点に話が及んだ。教員は、いくつか考えられる根拠をあげた結果、政策的に責任能力が求められていると結論づけた。
しかし、どういう政策的理由なのかが、教員からは説明されない。政策的理由という以上は、何らかの必要性に迫られて責任能力が必要という政策的判断がなされているはずだし、そこが責任能力を必要とする意味を理解するための肝であるはずだ。どうしてひとこと、子供のときに犯した不法行為のために一生巨額の損害賠償責任を負って生きていかなければならないのは相当ではないから、本人保護の為に政策的に要求されている要件なのだと、説明してやらないのだろう。

もちろん、教員は大学教授なのだから、過失概念から責任能力について説明できるだろうし、現在では責任能力が政策的に必要であると解されていることも、当たり前のことなのかもしれない。しかし、ここは未習1年生向けの講義である。民法を習いはじめて半年も経っていない学生に対して、分かるように説明してやる必要があるんじゃないだろうか。「結局、責任能力は、政策的に要求されているんですね」と言われても、何のことだか理解できない方が普通じゃないだろうか。

S弁護士がこのような疑問を抱いているうちにも、講義は進行する。

教員が不法行為に関する裁判例をレジュメとして事前に配布していたので、その解説が始まる。
裁判例には、簡単な事案が記載され、判決文が引用されていたと思う。おそらく重要部分と教員が考える部分にアンダーラインが引かれているようだ。

教員は、事案を簡単に説明した後、判決文のアンダーラインを読み上げて、不法行為のどういう要件が問題になっていたかを簡単に指摘した上で、こう言った。

「判決文をよく味わってください。あっ、ここで、この判例は『思うに』と書いていますが、君たちはまだ使っちゃ駄目ですよ。君らが『思うに』なんて使うのは10年は早い(笑)。」

一体どういうことだろう。S弁護士には、この講義の意味が分からなくなってきた。

教員が重要だと思う部分を読み上げることは理解できる。その判決において不法行為のどういう要件が問題になっているかを指摘することも当然だ。しかし、『思うに』という言葉に関する冗談はともかくとして、一番に学生に理解させるべき点は、当該要件がこの判決事案においてどのように争われ(当事者の主張とその根拠)、裁判所がどのように判断し、裁判所の判断根拠はどういう点にあったか(条文や要件をどのように解釈・判断・適用したか)、さらにその判断自体についてどう評価すべきか・・・・・という諸々の点なのではないのか。それを全てすっ飛ばして、「判決文をよく味わえ!」といわれても、多くの学生にはそれは無理だ。これだけの説明で判決文を味わえるほど理解できるなら、その学生さんは法科大学院に来る必要などないだけの実力があるんじゃないだろうか。

そもそも法科大学院制度のウリは、理論と実務の架橋、プロセスによる教育、双方向性の密度の濃い授業等々、素晴らしいお題目が並んでいたはずだ。
万一この授業が、理論と実務の架橋というのなら、そのスローガンは完全に嘘であったか、嘘でないとすれば、少なくとも未習者のこの段階では実現できていないというべきだ。単に判例を紹介しているだけで、実務的な要素には全く踏み込んでいないからだ。
このような授業がプロセスによる教育というのであれば、そのプロセス自体に問題ありだ。明らかに基礎的理解を欠いている学生に、高度な問題を提示し、解説も十分にないまま、「とにかく理解しろ」と強要しているだけだからだ。そもそもプロセスによる教育が良いとされるのも、きちんとした教育ができる講師が、法的知識・法的思考方法をじっくりと身につけさせるためではなかったのか。その教育自体が崩壊している場合に、問題をかかえた授業でプロセスによる教育を受け続ける場合、逆に弊害が大きくなるのではないだろうか。この点について、法科大学院側はどう考えているのだろうか。
双方向性の密度の濃い授業についても、少なくとも未習者のこの段階では実現できていないことも、授業をみてみれば分かる。単に質問して答えさせるだけが双方向性授業じゃないだろう。中学生や高校生ではないんだから。

結局、全ての法科大学院で、そのような理想的な法曹教育ができる(だからこそ認可したのだろう)と、法科大学院協会・文科省が自らを買いかぶりすぎていたということではないのだろうか。S弁護士は本気で心配になってきた。

(続く)

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