帰り道のこと

昨日、21時過ぎ頃、S弁護士は帰宅の途に就いていた。

仕事上、若しくは今後の営業上、考えなくてはならないことをボンヤリと考えながら、S弁護士は急ぎ足で淀屋橋に向かって御堂筋を歩いていた。
立秋とは名ばかりで、生暖かい風が、妙に腹立たしい。

あ~、やってられん。音楽でも聴くか。

S弁護士は、アイポッドを取り出した。
以前、アイポッドでは、スティーブン・ジョブズの、伝説と言われたスタンフォード大学での卒業演説を繰り返し聞いていたのだが、最近は音楽がメインだ。

S弁護士はJ・POPからクラシックまで幅広く音楽は聴く方だ。しかしラップは、何が良いんだかさっぱり分からないし、浜田省吾は好きだが、実はうるさい音楽はあまり得意ではない。しかし、聖飢魔Ⅱの「Stainless Night」のようにメロディラインが美しいと感じる曲は、ヘビィメタルであっても、ときどき聞く。

気分転換のために選んだのは、「陰陽座」というヘビメタバンドの「甲賀忍法帖」だ。

「甲賀忍法帖」は、アニメの主題歌でもあったそうで、アップテンポではあるが、ボーカルである黒猫の伸びやかでつややかな声を聞いていると、どうしても人には越えられない悲しさがあり、その悲しさが曲に秘められているようにすら聞こえてくる。ついついボリュームを上げてしまった。

当初、S弁護士の気は重かった。しかし、さすがに、アニメの主題歌、大ボリュームで乗りの良いさびの部分を聞いていると、S弁護士も気分がだんだん高揚してくる。「水のように優しく、華のように激しく、震える刃(やいば)でつらぬいて」等という歌詞が、黒猫のパンチのある歌唱力で歌われると、気付いてみると、S弁護士の気分は、もう甲賀忍者だ。

「引け! 引かねば、斬る!」等というやりとりが本当にあったのかは不明だが、S弁護士は、心なしか足を速めて、御堂筋通りを南下していた。

ところが、大江橋手前の交差点にさしかかったとき、何人かのオッチャンが、キャリーバックを引きながら突然横から現れた。音楽に集中して、甲賀忍者になりきっていたS弁護士は危うく、オッチャン達にぶつかりそうになった。せっかくの甲賀忍者気分に水を差されたS弁護士は、心の中でこう叫ぶ。
「運が良かったな、世が世であれば、切って捨てるところよ!」だって、気分はすでに、無敵の甲賀忍者になっているんだから、しょうがない。

ところが、そのキャリーバックを引っ張ってS弁護士の通行を邪魔した狼藉者達の方から「あっ!Sさん」と、S弁護士の本名を呼ぶ声が、S弁護士の頭を支配している黒猫のボーカルの隅から聞こえた。

S弁護士は一瞬で、現実に引き戻され、慌ててイヤホンを外す。

この近辺でS弁護士のことを「Sさん」と呼ぶのは、同期の弁護士か、かなり修習期が上の弁護士先生のことが多い。何故だか分からないが、修習期にかなりの差がある場合、年輩の弁護士は若手の弁護士を「○○先生」とは呼ばず、「○○さん」、と呼ぶことが多い。だから、S弁護士が「Sさん」と呼ばれた際には、大先輩の弁護士からの呼びかけであることが多いのだ。

慌てて振り返ったS弁護士の目に飛び込んできたのは、S弁護士が(妄想の中で)切って捨てようとした不埒な狼藉者、ではなかった。

にこにこ笑いながら手を振っていたのは、Y先生だった。現大阪弁護士会の会長である。S弁護士は常議員会や懇親会等の機会に、Y会長に直接意見を何度も申しあげたことがあるので、面識があるのだ。

狼藉者達は、一瞬で、大阪弁護士会の重鎮の先生方へと変化した。

S弁護士は弁護士会の重鎮の方々については、意見は異なることはあっても、弁護士としては尊敬している。それは、気分が無敵の甲賀忍者であっても変わらない。「あ~、切って捨てなくて良かった・・・」。

先生方に気付かなかったのが、こちらの落ち度か、メロディラインの美しさのせいか、黒猫の美しいボーカルのせいかは分からないが、とにかく、S弁護士は挨拶をしてお別れした。

ただ、S弁護士も慌てていたのだろう。会長以外の方にも、きちんと挨拶することを忘れていたことに、京阪c特急の中で気がつくことになる。

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