「姉刺殺大坂地裁判決」に関する大阪弁護士会会長談話~その2

(前の記事の続き)

おそらく昨日挙げたA・Bの万引きの例であれば、Bを(場合によっては最大限)重く処罰するのはおかしいと多くの方がお考えになったのではないだろうか。もちろん昨日挙げたA・Bの例は、極端な例ではあるが、今回の姉刺殺事件大坂地裁判決と本質的には、類似する問題を孕んでいるように思われる。

それは、やってしまった行為以上の責任を、本人の属性(しかも今回の裁判では、自分の努力ではどうにもならない発達障害)を考慮して社会防衛の観点から負わせてしまって良いのかという問題(刑法の責任主義の原則に反しないかという問題)だ。

もちろん社会秩序維持のために、危険性のある人には処分が必要だとする考えもないではない。いわゆる保安処分の導入を求める考えだ。
誤解を恐れずに簡単にいえば「この人は社会にとって危険だから危険な行為をする前に規制してしまえ」、として処分を下してしまう制度を保安処分という。戦前の日本でも、治安維持法改正によって「予防拘禁」という名の保安処分が導入され、なにも犯罪をしていなくても、「こいつの思想は危険だから拘禁してしまえ」、として身柄を拘束することができ、思想弾圧の道具として利用されていたという。第2次大戦前のドイツ、ヒットラー政権下でも保安処分が導入されていたことは良く知られているところだ。

刑罰は社会にとって許されない行為をしてしまったことに対して下される制裁だが、保安処分は社会にとって危険性があるというだけで(犯罪行為をしていなくても)下されるおそれのある処分だ。

なるほど社会秩序を維持するためには、保安処分は有効かもしれない。しかし、保安処分は思想弾圧に用いられる危険(歴史上明らか)もあるばかりか、社会的少数者、社会的弱者の人権を侵害する危険性が高い制度でもあり、導入・実施には極めて慎重な配慮が必要なのだ。しかも思想弾圧目的で導入された場合、思想を表明する前に弾圧されてしまう危険もあるから、思想の自由市場での評価を受ける機会すら失われるおそれもあり、民主政の過程での是正が困難かもしれないのだ。

国民的議論を経て保安処分を導入するなら、それはそれで国民の選択かもしれない。しかしあくまで、犯罪行為に対して責任を問うことを前提とする既存の刑事裁判の過程で、保安処分の思想を取り込み、刑罰の形をとりつつ保安処分的行為を行うことは慎むべきではないのだろうか。

したがって、私はこの問題に関する大阪弁護士会の迅速な会長談話発表については、評価している。それと同時に、日弁連も同様な意見を表明し、問題点を(私のブログなどよりも)分かりやすく国民の皆様にお伝えする必要があるのではないかとも考えている。

だが、私の懸念は、実はもう一つある。
それは、この保安処分的発想の判決は、裁判員裁判で下された判決だということだ。評議の内容は非公開なので全く分からないが、司法試験や司法修習で責任主義の原則をきちんと勉強したはずの裁判官が評議に同席していながら、責任主義に反するおそれのある量刑内容・理由の判決を下してしまっている点だ。

裁判官が、裁判員の意見に迎合してしまった危険性はないか、国民の意見を取り入れる目的の裁判員制度で国民側が全員一致して重い量刑にすべきだというなら仕方がないということを言い訳にして、裁判官としての責務を放棄しなかったか、という疑問がぬぐえない点で、この判決にはさらに大きな問題が潜んでいるように思われる。

国民の皆様も、裁判員裁判についても、国民の参加だから歓迎だと単純に考えるのではなく、自分が裁かれる立場になった場合、果たして本心から裁判員裁判で裁かれたいといえるか、もしそう思わないとしたらどうしてなのか、という観点から再考して頂いても良いのかもしれない。

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