ニュージーランドのテカポ湖の湖畔にある小さな町、テカポに、「善き羊飼いの教会」という名の小さな教会がある。
ものの本によると、1935年に開拓民により建てられたそうで、小さく質素な教会である。ここの祭壇は特徴的で、小さな十字架の掲げられた祭壇の後ろは、ガラスになっており、湖と遠くの山脈が一望できるように作られている。
また、テカポ湖は、氷河の溶けた水が流れ込むこともあり、非常に美しいターコイズブルーの湖水を持つ。したがって、教会内からみる祭壇は、その美しい湖水と、遠くに雪を頂く山々を、同時に十字架の背景にしているという仕組みになるのだ。
そのこぢんまりしたかわいらしさに着目してか、日本人のカップルの結婚式も時々あるそうだ。その話を聞いて、私は、勝手に俗化された教会をイメージしていた。だから敢えて人のいなさそうな遅めの時間に教会に行ってみたのだった。
私がわざと遅く訪れたときは、もう夕暮れ時で、教会も閉まっていた。そのため残念ながら特徴的な祭壇を教会内から見ることはかなわなかった。ただ、遅い時間に訪れたため、観光客は殆どおらず、ゆっくりと暮れていく夕陽の中で、ひっそりと湖畔に佇む小さな質素な教会を(外からだけだが)のんびりと見ることができた。
夕陽が、誰もいない教会の窓に灯をともし、鳥たちが隊列を組んでねぐらに向かっていた。
あたりは、ひたすら静かだった。
俗化しているのではないかという私のありきたりな予想などとは全く関係なく、教会は、すっと背筋を伸ばし、遠くを見つめるように、そこにいた。それを見て、私は、おそらくこの教会は俗化などとは一切関係がない教会なのではないかと考えを改めた。
教会自体は、建てられた当初から、ただ信仰のために訪れる信者の拠り所としての役目を果たしているだけであって、それ以上のものではないのだ。どれだけ観光客が訪れようが、その役目に変わりはなく、またその役目を立派に果たしていることにも変わりがない。俗化しているかどうかは結局他者から見た外部的判断であって、どんな判断をされようと、教会自体は、自らの役目をじっと、黙って果たしているし、これからも果たし続けるのだろう。
その光景の静けさを上手くカメラに納められない自分に少しいらだちながらも、私は、75年前に建てられた、小さな湖畔の教会から、静謐だが、豊かな夕方をプレゼントしてもらったような気分になっていた。