世界的名声を得た画家、宇佐美が、義父を描いた肖像画が切り裂かれ、硫酸をかけられる事件が発生する。その事件は、エルミタージュ美術館で起きた、レンブラントの「ダナエ」毀損事件と酷似していた。犯行を伝える女性の声は、これは予行演習だと告げる。宇佐美は義父への危害を心配するが・・・・・。
「う~ん読むんじゃなかった、少なくとも電車の中では。」
そう思いながら、藤原伊織の残した最後の中・短編集に収録されたこの作品に、私はまたも、やられてしまった。眼鏡をはずしハンカチを手にせざるを得なかったのだ。
この作品の前半部分で、主人公が愛読する、萩原朔太郎の「乃木坂倶楽部」という詩の一部が引用される。
わが思惟するものは何ぞや
すでに人生の虚妄に疲れて
今も尚家畜の如くに飢ゑたるかな
我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ尽くせり。
宇佐見は、どうしようもなかった過去を忘れ去れずにいる。若さの純粋さ故に別れるという解決方法しか選び得なかった、元妻の面影を苦い思いと共に抱きつつ、今を生きている。傍目には成功している宇佐見。全てを手に入れたかのように見える宇佐見だが、間違いなく宇佐見は、傷つき、その傷を癒せずにいる。若さ故に何の力も持ち得なかった自分の無力さ、若さゆえに思い至れなかった、元妻の自分への思いに対して。
しかし、世間にその存在すら認められていなかった当時の彼に何ができただろう。やはりどうしようもなかったのか。いや、何かできたはずではなかったか。自ら別れることを選択した彼女に対して・・・。
彼の苦渋に満ちた記憶は、上記の朔太郎の詩の後ろ2行、「我れは何物をも喪失せず」 「また一切を失ひ尽くせり。」に集約されている。
そして、事件が明らかになるにつれ、上記の朔太郎の詩の続きである次の部分が小説の中で展開されるように私には思われる。
(中略)
虚空を翔け行く鳥のごとく
情緒もまた久しき過去に消え去るべし。
しかし、宇佐見には消し去ることはできないのだ。おそらく永遠に。文中で 宇佐美自身が語っている。
「・・・それでも、もしそれまでのずっと以前に知っていたとしても、僕になにかできたかどうか、それがわからない。救いの手すら差しのべられたかどうかがわからない。なにしろ、僕は無一文でどんな力もなかった。いまもわからないでいる。当時、結論の出るわけもなかった。答えのないあの問いは、一生、後悔として残るだろう・・・・・・」
このような男を描かせたら、藤原伊織は抜群の冴えを見せる。
私自身決してドラマティックな過去を持つわけではないが、決して答えのない問いを問い続けなければならない宇佐美に激しく共感させられてしまう。
ただ、個人的に言えば、ラスト10行はなくても良かったように思う。私の勝手な邪推であるが、最後の10行について、藤原伊織は、付け加えようかどうか迷ったのではないだろうか。その上で、ラスト10行を付け加え、主人公宇佐美に微かではあるが確かな希望を与えてあげたのではないか。的外れもいいところかもしれないが、私にはどうも、そのように思えて仕方がないのである。
・・・・・・・・私がハンカチを取り出し、目をぬぐう間、隣の乗客は、一瞬、訝しげに私のほうを向き、その後何も気づかなかったフリをしてくれたようである。その誰だかわからない乗客に、少しの優しさを感じたのは、「ダナエ」を読んだからなのかもしれない。
そんな小説である。