TV等で、よく「訴えてやる!!」と訴訟をあおるようなバラエティ番組があるが、裁判に訴えた側が有利だという構造は基本的にはない。むしろ不法行為など立証責任が基本的に原告側にある法的構成を採ったりすると、訴えた側が立証しきれずに却って敗訴に近づくという可能性だってあるくらいだ。
それはさておき、法律相談などをしていると、よく、「真実はこうなのだから、自分の主張は絶対に正しく、正義は我にある。裁判所は正義の味方だから、当然裁判でも勝てるはずだ。」と仰る方がいる。
例えば、自宅から出火して全焼したあとに損保に対して火災保険金を請求したところ、「あなたが放火したので支払わない」と言われた方などは、自分は絶対に放火しておらず、全く身に覚えのないことだから保険会社の主張は言いがかりであって、裁判所は勝たせてくれるはずだと考える方もいる。
その人にとっては自分の主張が真実なのだから、正義の味方である裁判所が認めてくれないはずがないと考えているのだろう。
しかし、ことは、そう簡単には運ばない。
確かに、裁判所が魔法の鏡をもっていて、出火当時の場面を自在に写し出せるのであれば話は簡単だ。魔法の鏡に映し出された内容が真実なのだから、その事実を基に裁判所が判断すればいいのだ。
しかし裁判は人間がやることだ。裁判官だって人間だ。そのような魔法が使えるわけがない。
過去に起こった事件に関し、何が起きていたのか、真実はどうなのか、については、録画でも残されていない限り(録画でも改変がなされる危険がある)、裁判所が実際に知覚する手段はない。
だとすれば、一般的には、後に残された証拠から合理的に推認して、どのような事実があったのかを認定し(事実認定)その認定した事実に法を適用して結論を導くしかない。
その証拠についても、信用できるかどうかを裁判官が自らの常識に基づいて判断し、常識に合わない結論を導くものは排除して、最終的な結論を導く。
誤解を恐れずに分かりやすく言えば、当事者から提出されたレゴのパーツのようなもの(証拠から)、これは納得して使えると思われるパーツを抜き出し、そのパーツを使って、その当時に生じたであろう事実を構築するのだ。(裁判官の判断はもっと直感的で、直感的に結論に到達してからその結論を導く証拠を用いるのではないかという分析もある。)そして裁判官がパーツから構築(認定)した事実に、法を適用して結論を導くのだ。
だから、当事者からみれば、完全に真実と異なる事実を裁判官に構築され、ありもしない事実があった、と判決中に認定されてしまうことだってあり得るのだ。
裁判になっている以上、通常、判決ではどちらかを勝たせる結論を出さなくてはならない。それは即ち勝訴した側の主張はほぼ認められるが、敗訴した側は自分の言い分を全て否定されるような判決内容になることを意味する。それは白黒つける以上やむを得ないことだ。
残念ながら、それが人間の行う裁判の限界なのだ。
よく、裁判官が相手方から何らかの便宜を図ってもらっているから負けさせられたのではないか、と敗訴した方からの苦情を聞くこともあるが、少なくとも、私の知る限り、日本の裁判官には、そのようなことはない。
確かに、どうやったらこんな認定が出来るのかと思うような、へんてこな事実をレゴのパーツから作り上げて、認定してしまう裁判官は、たまにいるように思う。 しかし、これは世界に誇って良いことだと思うが、訴訟当事者から何らかの便宜を受けて判決を曲げる裁判官はないと断言してよいと思う。
以上述べたように、裁判所は残念ながら、弱者の味方ではないし、正義の味方でもない。
しかし、裁判所は、一個人であろうが、大企業であろうが、権力者であろうが、基本的には対等な当事者として扱い、同じ土俵で主張と立証を闘わせ、公平にジャッジしてもらうことができる(敗訴した側はそう感じないことが多いのだが)、貴重な場なのである。