NHKのEテレを見ていて思い出したことがある。
30年以上前の話だが、大学に進学する際には第2外国語の選択が必要だった(今もそうだろうが)。
私の進学した京都大学法学部は、当時ドイツ語、フランス語、中国語、ロシア語が選択可能だった。
当時は、アメリカとソビエトがまだ冷戦を継続している時代で、2大強国とされていた。そこで、英語は受験で少しは勉強したから、もう一つの大国でありながら謎めいた存在であるソビエトのロシア語でもとってみようかな・・・。というほとんど理由になってない理由で私はロシア語を選択したのだった。
当時の京都大学法学部は、第2外国語の選択によってクラス分けがなされており、私は確か5組に配属された。
5組は中国語選択者とロシア語選択者を中心としたクラスだったが、一部にフランス語かドイツ語選択者がいたような気もする。クラス分けのあとに知ったのだが、ロシア語選択者は私ともう1人だけだった。
330人強の法学部1回生のうち、ロシア語選択は僅か2名。しかも、残りの1人も、単位を取れずに中国語に変わったと、風の噂で知った。
ロシア語の先生は、山口巌先生と植野修司先生だった。法学部生だけでは生徒が少なすぎるため他の学部のロシア語選択者も一緒に授業を受けていたはずだ。お二人とも人格的には穏やかな先生だったが、植野先生の授業は出席すると容赦なくあてて答えさせられた。植野先生からは、出席と試験が良くないと落としますから、と言われていたため出席せざるを得なかった。
しかし、出席してもあてられて、トンチンカンな返答で恥をかくことも私は多く、ロシア語のある日は憂鬱だったという記憶しか残っていない。
ロシア語には変な(?)アルファベットもあり、なじめず苦労したが、アルファベットさえ知っておけばローマ字読みの要領でなんとか読めることは新鮮だった。
とはいえ、元もとロシア語を勉強したいという強い動機もなかったうえに、ソビエトに旅行することも当時はまず考えられなかったことから、私としては、ロシア語を身に付けるというよりも、最低点で良いのでなんとか単位を取ることだけに集中していたように記憶している。
あとになって知ったのだが、お二人とも凄い先生だったので、もっとロシア文学などについて勉強して、いろいろお話しをお伺いすれば良かったと悔やまれる。それと同時に、そのような先生からロシア語を学べる環境にいたことは、実に恵まれていたのだと、今さらながら思うのだ。
ただ、その環境の素晴らしさに当時は気づくことができなかった。
それが悔しい。