法科大学院雑感2

(前回の続き)

 さて、現在、法科大学院の統廃合がなされつつあるが、思いだして欲しい。
法科大学院には「法の支配を隅々まで」を標榜して、法科大学院の全国適正配置という理念もあったのではなかったか。
 現実には、撤退する法科大学院が相次ぎ、さらに補助金カットなどで更に増えると見込まれる。
 しかし私は言いたい。
 かつて、いみじくも、法科大学院維持論者の某大学教授が、成仏理論なるものを唱えていたではないか。

(成仏理論~要旨)
 問題の捉え方がそもそも間違っている。食べていけるかどうかを法律家が考えるというのが間違っているのである。何のために法律家を志したのか。私の知り合いの医師が言ったことがある。世の中の人々のお役に立つ仕事をしている限り、世の中の人々の方が自分達を飢えさせることをしない、と。人々のお役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはないであろう。飢え死にさえしなければ、人間、まずはそれでよいのではないか。その上に、人々から感謝されることがあるのであれば、人間、喜んで成仏できるというものであろう。
(ここまで)

 そもそも、法科大学院だって世の中にお役に立つために始めたものではないのか。まさか少子高齢化の中、大学経営のみを見据えて法曹志願者から金銭を、国民から税金を、それぞれ巻き上げるために法科大学院制度を設計したわけではあるまい。
 だとすれば、法科大学院が撤退を考えることも、成仏理論からすれば問題の捉え方がそもそも間違っていると言えはしないか。
 成仏理論によれば、世の中のお役に立つ仕事を法科大学院がしてさえいれば、法科大学院だって世の中の人々が飢えさせることはないんじゃないのか。飢え死にさえしなければ、法科大学院だってまずはそれでよいのではないか。その上、人々から感謝されることがあるのであれば、法科大学院だって喜んで成仏できるはずだろう。

 (成仏理論が正しければ)全国適正配置を含めた法科大学院制度の理念が正しく、世の中のお役に立っているのなら、撤退なんかしなくたって、法科大学院は成仏できるはずである。

 先ず隗より始めよとは、古今の名言。
 他人に成仏を説く前に、成仏理論を提唱した方、その成仏理論を提唱した方が維持を叫んでいる法科大学院から先ず、成仏してみせてもらいたいものだ。

(この項終わり)

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