映画「風立ちぬ」~宮崎駿監督作品

以下の感想は、あくまで一度だけ映画を見た私の感想であり、パンフレットも買っていないので、宮崎駿監督の意図から完全に外れてしまった捉え方をしたうえでの感想となっている可能性があることをご理解の上、お読み頂下さい。

また、この感想をお読み頂くのであれば、その前に必ず、劇場で映画をご覧頂くことをお勧めします。

(以下感想)

一般に善きこととされているはずの「夢を追うこと」、「人を想うこと」、は残酷な面を孕むものである。夢を追ってもかなえられるとは限らないし、例え夢が叶ってもその代償として失われるものも決して少なくない。人を想ってもその想いが叶えられるとは限らないし、例え叶ってもいずれ別れの日がやってくることは避けられない。

しかし、それでも夢を追い続けること、人を想うこと、そして、それらを含めて懸命に生きることは美しいのだと、感じさせてくれる映画だったように思う。

映画の中では、違和感を感じる場面もある。例えば、主人公は、一度も会ったことのないイタリアの航空技師カプローニの夢を見ることになり、主人公の中で夢と現実が交錯するような場面が数カ所ある。どうしてこのような描写が必要なのか。また、自らの試作機が墜落し、ばらばらになって放置されたハンガーの描写があるのに、その後の社内でのやりとりなど、当然描かれておかしくない場面が大胆に省略されている部分もあるように思う。一方、二郎とその妻である菜穂子との美しい想い出は、これでもかというくらいに丁寧に描写されている。

しかも、それらの場面において、描写されている視点がいずれも、客観的なものではなく、主人公二郎の目線から描かれているように感じられる。

映画を見ているときには気づけなかったが、映画館を出た後、ひょっとしたら、この映画は、主人公である堀越二郎の回想と捉えることができるのではないか、と私は感じた。

上手く言葉で表現できないことがもどかしいが、おそらく老境にさしかかっているであろう主人公二郎が、自分の半生を自ら振り返った際に、美しい想い出はより美しく、苦い想い出は忘れはしないが緩和されて思い出されたのではないだろうか。そう考えれば、何度かあるカプローニとの夢の中での交流も理解できなくはない。

病床の妻を抱えながら必死に二郎は、(美しい飛行機が戦闘機であるという矛盾はあるものの)自らの夢をかなえるために生きた。妻の菜穂子も、最も二郎が大変な時期に少しでも近くにいたいと、自らの病状悪化を顧みず病院を抜け出して二郎に寄り添い自らの人生を輝かせた。

そして、最愛の妻は、この世を去る際に「生きて」と二郎に伝えた。

もちろん、最愛の妻との別れは、二郎にとって生きる気力を挫くに十分すぎるほどの打撃だったかもしれない。

しかし二郎は、最愛の妻の言葉に励まされ、自らの夢を賭けた仕事、妻への想いを抱えながら、「生きねば」と決意し、今日まで懸命に生きてきた。

そして、今振り返ってみて、おそらく、妻の言葉と二郎のその決意は正しかった。私の生き方もそしておそらくは妻の生き方も、やはりこれで良かったのだ、という想いが二郎にはあったのではないだろうか。

ここまで考えたときに、私は、宮崎駿監督が主人公の二郎に、自分を重ねているのではないかとも感じた。宮崎駿監督にしても、これまで仕事の途中に様々な出来事があっただろう。それでもおそらくは(自らの夢を賭けた)仕事に最善を尽くし、ご家族・関係者もそれを支えてきたはずだ。

その宮崎駿監督自身が二郎の姿を借りて、仕事を始めとして懸命に生きてきた自分自身を顧み、支えてくれた家族や関係者の方への語り尽くせない感謝と、この生き方がおそらく監督としては正しかったと思えること、を示したかったのかもしれない。

もしも、この私の邪推が正しかったとしたら、宮崎駿監督はこの映画を最後に、もうアニメ映画を作らないつもりなのかもしれない。ここまで、自らの想いを語ってしまった後には、次に語るべきものが容易に見つかることは考えにくいからだ。

私の勝手な感想が、全くの的外れであったとしても、この映画は美しい。飛行シーンで雲が質感を感じさせすぎる面はあるが、空の美しさなど、私が実際にグライダーで飛行していたときに見た空よりも美しく感じられた。

確かに、声優があまりにセリフ棒読みだとかの批判は当然あり得るだろうし、映画に入り込めるかどうかによって、評価は分かれるはずだ。

それに、内容としては、中高年の特に男性を結果的にターゲットにした状況になっていると思われ、決して子供向け・ファミリー向けとはいえない映画である。

しかし、そうであっても、この美しい映画を見て、損はない、と私は思う。

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