「神の道化師」 トミー・デ・パオラ作

 ジョバンニは、孤児だった。それでも、一つだけ得意なことがあった。それは、たくさんのモノをお手玉のようにぐるぐると回すこと。

 ジョバンニは、その芸を磨き、やがて独立して生きていけるようになる。

 しかし、ジョバンニは次第に年をとり、かつて喝采を勝ち得たその芸も飽きられていく・・・。

 友人に勧められてこの絵本を読んだ。

  主人公であるジョバンニは、本当に一筋に自分の能力を磨き、人を楽しませることに喜びを見出していたのだ。

 高い身分の人間に対しても、自分の信じる芸を臆することなく表現し、ジョバンニはお金や地位に、媚びることがない。自らの芸を信じていたからこそ、できたことだ。

 一つの芸を磨き、それを表現することに喜びを見出す。この点では、ジョバンニは、まさにプロフェッショナルであって、見事と言うほかはない。

 しかし、時代は移ろう。

 あれほど喝采を受けた芸も、見飽きた人には陳腐な芸としか写らなくなっていく。ジョバンニの芸自体は、変わらず一流であっても、時代がそれを一流と認めなくなっていくのだ。自らの芸を信じその芸を磨くことによりプロフェッショナルとなったジョバンニにとって、この状況は極めて苛酷だ。

 ジョバンニが次第に年を重ね、ついに芸を披露する際に失敗をしてしまう。

 観衆は、ジョバンニに対して石を投げつけることによって、その失敗したという結果に報いる。その観衆達には、これまでジョバンニの芸によって感動させてもらったり、癒されたり、希望をもらったことなどを思い出す者は、もう誰1人いないのだ。

 ジョバンニは、道化の仕事を辞めて故郷に帰ることを決意する。絵本の中では淡々と書かれているが、自ら磨いてきた唯一の芸、長年一緒に人生を歩んできた芸を止めると決意し、川で道化のメイクを落とすジョバンニの心境は如何なるものだったのか。

 最後にジョバンニは、故郷の教会の中で、聖母マリアに抱かれた子供の頃のキリスト像を目にする。

 多くのクリスマスの捧げ物を受けていながら、子供のキリスト像は、ちっとも楽しそうではないとジョバンニは気付く。物質的な満足だけでは満たされない部分も世界にはあるのだ。ジョバンニは、物質的な捧げ物は出来ないものの、唯一自分ができること、つまり自らの芸を、心を込めて、キリスト像に捧げる。

 誰も他に見てくれる者がいない、冬の教会の中で、ジョバンニは年老いた身体でキリスト像に対して一世一代の芸を披露し、息絶える。

 誰も見てはいなかった。

 誰1人、彼を賞賛する「人間」はいなかった。

だが、息絶えたジョバンニの亡骸を見つけた修道士は、振り返って、キリスト像がにこやかに微笑んでいることに気付くのである・・・。

 現実に置き換えてみると、今の世界は、否応なく多くの人をジョバンニのようにしていく。熟練工は工作機械の発達で仕事を失い、優秀な大工も大量生産されるプレハブの家の前に仕事を失う。

 このような現代において、子供のキリスト像のように、一つのことを磨いてきた努力に報いてくれる存在はあるのだろうか。

 おそらく、ジョバンニは、天国では間違いなく高く評価されているだろう。不機嫌なキリストの機嫌を直したくらいの腕前なのだから。

 はたして、この物語の主人公であるジョバンニは幸せであったのか、そうではなかったのか、それは読み手の判断に任されているように思う。

 是非一度、お読み頂くことをオススメする絵本である。

ほるぷ出版 1,470円

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