映画「モールス」

 雪に閉ざされる田舎町。学校ではいじめられているが、父親と別居し、精神的に不安定な母親に相談できない12歳の少年オーウェン。ある日、隣に年が同じくらいの美少女とその父親らしき男が引っ越してくる。
雪の降り積もる中庭で、裸足で現れたその少女アビー。オーウェンは次第にミステリアスなアビーに惹かれていく。
 一方、町ではこれまでにない残酷な猟奇的殺人が頻発するようになる。この事件を追っていた刑事は、捜査を重ね次第にアビーの家に迫るが・・・。

(以下の感想はネタバレを含みます。まず映画をご覧になってからお読み下さい。)

 パンフレットも買っておらず、一度見ただけでの私の勝手な感想なのだが、私は、切なく悲しい気持ちが満ちている映画ではないかと感じた。

 謎の美少女アビーはヴァンパイア(吸血鬼)である。

 生きるためには、人間の血がどうしても必要だ。また、家の住人から招かれなければその家には入れない。

 アビーの父親と思われた初老の男は、あとで分かるのだが、アビーのために人間を狩り、アビーのために人間の血を集めてくる役目を負っていた。しかし年齢を重ね、失敗を犯す場合も増えてきていたのだろう。初老の男は、人間を襲って生き血をとることに失敗した際に、アビーに捜査の手が届かないように、自ら酸で顔を焼く。激痛に耐えながらでも身元を分からないようにして、アビーを守ろうとするのだ。そして、最後はアビーに自らの血を提供し、死んでいく。

 一方、お互いモールス信号を用いて意思を伝え合ううちに、次第に惹かれ合う、アビーとオーウェン。

 アビーの本性に気付いたオーウェンが、それでもアビーを守っていこうと決意し、二人が列車でいずこともなく逃げていくシーンで映画は終わる。

 この映画の解釈は、分かれるだろう。

 アビーが、もう役に立たなくなった初老の男を見捨てて、新たな下僕として、オーウェンを籠絡したのであり、不死のヴァンパイアとその下僕の男という、吸血鬼と人間の男性とのこの輪廻のような関係が永遠に続いていくという解釈。この解釈は、映画の最後に暗示されるオーウェンとアビーの関係について、アビーの意思が実現されたと捉えるものだ。アビーは12歳の姿をしていながらもヴァンパイアであり極めて長い時間を生きてきたことから、同じ年代の少年を籠絡することは、いとも容易いはずであり、中庭のシーンや、二人のデートもあることから、この解釈は自然なものとも考えられる。

 もう一つは、これまではアビーが幾度となく人間の男性を籠絡して下僕としてきたが、今回に限っては、オーウェンが吸血鬼アビーを敢えて自らの決意で支えていくのだという解釈。この解釈は、映画の最後のシーンについては、アビーではなく、オーウェン自身の意志が強く働いていると捉えるものだ。結局、アビーのためにオーウェンが献身するという点で変わらないようにも思うが、アビーにオーウェンを下僕にするという下心がない点で、大きく異なる。

 どちらの解釈も可能だとは思う。自信はないが敢えて私は、後者の解釈をとりたい。その理由は、アビー自身今までの生活に疲れた様子を見せていること(この意味で少女でありながら演技によって永遠の生活の疲れを表現しているクロエ・グレース・モレッツは凄い。)、本来食することが出来ない人間界の食べ物をデートの際にオーウェンの勧めに従って口にしたこと、隠れ家でオーウェンの血を見ながらもオーウェンを襲わなかったこと、アビーの本性に気付いたオーウェンが自分の家に入って良いとの許可を出さないのに、アビーは立入り、自ら崩れ去ろうとしたシーンがあること、等の理由からだ。

 また、相手を大事に思う気持ちは美しく、かつ切なく悲しいが、吸血鬼であれ、人であれ、そういう気持ちのこもった映画であって欲しいという私自身の勝手な願望も入っているだろう。 だからこそ、アビーが自ら崩れ去ろうとした行為を過大に評価してしまっているのかもしれない。

 ただし、初老の男もアビーを心から大事に思うからこそ、自らを犠牲にしてアビーに提供したものであり、そう考えると前者の解釈も十分説得力はある。 アビーの前述の行為も計算し尽くされた演技だったのかもしれない。

 これを言っちゃぁ、お終いかもしれないが、女性は現実的であることを痛感している人にとっては前者の解釈、未だ女性に何らかの幻想を抱いている人は後者の解釈をとるのかもしれないね。

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