涙もろくなるということ

 年を取ると、涙もろくなるとよくいわれる。

 私も、例に漏れず、涙に関して少しだらしなくなりつつあるようだ。映画や小説などでも、若い頃なら「どうせ、演技やん」とか、「どうせ小説じゃない」、と冷たく突き放して見ている自分もいたように思うが、最近は、わざわざそのようなことを考えずに、素直に感情に従う場合が多くなってきたようだ。

 若い方が感受性が豊かだといわれることもあるのに、どうして年齢を重ねると、涙もろくなるのだろうか。

 本当のところは分からないが、おそらく、人生の経験がそうさせるのではないかと思うときがある。

 人は、喜びや悲しみを重ねて、人生を歩んでいく。ときには裏切りなど、手痛い目にも遭わされる。しかし、人だから明日が来る以上、辛くても生きていく。だから、経験が増えた分、その人の苦労やつらさ、そして人生の不条理などが、よりよく理解できるようになる。

 15歳の少年が、例えばゴーゴリの「外套」を読んでも、世の中の理不尽さに憤るくらいかもしれないが、もう少し経験を積んで大人になれば、外套を新調するために、厳しい倹約を続けながらも妖しく燃え上がる主人公の心や、外套をついに新調したときの主人公の気持ちなど、よく理解できるようになるはずだ。それと同時に、外套の慎重をお祝いするという名目で飲み会をやりながら、あくまでそれは口実に過ぎない同僚たちや、せっかくの外套が外套掛けから落ちていたときの主人公の感じるだろう寂寞とした思いが、さらによく分かるようになるはずだ。

 そして、主人公の悲劇を描きながらも、主人公を見つめる作者の目が、おそらく一貫して暖かいものであることにも気づけるようになるはずだ。

 だから、私は涙もろくなることは決して悪いこととは思っていない。

 人の痛みを、よりよく理解できるようになりつつある、ということだと思えるからだ。

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