「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」  藤原新也 著

 ・・・・そこには、人間の一生はたくさんの哀しみや苦しみに彩られながらも、その哀しみや苦しみの彩りによってさえ人間は救われ癒されるのだという、私の生きることへの想いや信念がおのずと滲み出ているように思う。

 哀しみもまた豊かさなのである。

 なぜならそこにはみずからの心を犠牲にした他者への限りない想いが存在するからだ。

 そしてまたそれは人の中に必ずなくてはならぬ負の聖火だからだ。 (著者あとがきより)

 長い題名の本だが、内容は14編の短編小説である。

 いずれの短編も、私は好きだが、特に、この本の冒頭を飾る短編、「尾瀬に死す」がお気に入りである。

 1993年10月に起きた事件で、殺人の容疑をかけられた友人(倉本)から手紙が届く。不治の病に冒された妻にせがまれ、倉本が妻にプロポーズをした想い出の尾瀬に、倉本夫妻は二人きりで出かける。妻は倉本が少し目を離したスキに容態が急変し死亡する。偶然が重なり状況は倉本に不利だ。倉本は「私」に証人として証言して欲しいと依頼するが・・・・・。

 1993年は、私の大学時代のグライダー部仲間だったM君が、尾瀬で遭難し不慮の死を遂げた年である。また、私は「尾瀬に死す」の事件があったとされる、まさに1993年の10月に、私はグライダー部仲間であった辻昭一郎君と二人で、M君の冥福を祈りに尾瀬に赴いたことがあるのだ。しかも、小説は私が今も扱うことのある刑事裁判がらみである。

 勝手に不思議な因縁を感じても、私の罪ではないだろう。

 小説は、ある出来事があって刑事裁判が進展し、判決後の「私」と倉本が再会し語り合う場面で終わる。映画のように派手な出来事が起きたわけではない。世間的にも、ある裁判が終わったというだけだ。だが、倉本と「私」の語り合う内容は、おそらくこの本の読者の心を揺さぶることになるはずだ。

 私が下手な文章で紹介するよりも、是非ご一読頂ければと切に願う。

東京書籍 1600円(税別)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です