朝日新聞の法科大学院教授のご意見について

 今日の朝日新聞朝刊を読んでいたところ、同志社大学法科大学院のコリン・ジョーンズ教授が「私の視点」という欄に投稿されておられました。

 投稿の題名は「法科大学院 『法曹の脱エリート』こそが使命」とされており、主に、次のように主張されているように受け取れました。

 ①日本の裁判制度には、裁判の強制力などに関する問題点がある。

 ②このように日本では裁判制度自体が利用しにくい制度であるから、弁護士が増員しただけでは日本が訴訟社会になることはない。

 ③日本では裁判所が親しみやすさをアピールしているが、アメリカでは親しみやすさが求められるのは弁護士である。

 ④法科大学院卒の司法試験合格者に対して、質の低下が言われるが、それは旧制度の合格者達が大幅に合格しやすくなった新制度合格者と同じとされるのが嬉しくないからであろう。

 ⑤しかし、「質の低下」ではなく「多様化」と捉えるべきである。法科大学院制度は多様な人材を法曹とするのが目的だったはずである。

 ⑥「法曹=エリート」という意識を継続させれば、親しみやすい司法は難しい。「法曹の脱エリート」こそが法科大学院の使命である。

 まず、①については異論はありません。私としても同様に感じているからです。②については、仮に裁判制度が使いやすい制度であっても日本人の国民性として、訴訟社会を受け入れるかどうかについては疑問がありますが、将来のことなので現段階では分からないでしょう。③については、私の知らないアメリカの事情なので、コリン・ジョーンズ教授の仰るとおりなのでしょう。

 しかし、④については大いに疑問があります。コリン教授は、法科大学院を出て法律家になった者の質が低いというのは、旧制度の連中のやっかみではないかと言わんばかりの主張をされています。

 しかしその御主張にはなんの根拠もありません。コリン・ジョーンズ教授がそう思いこんでいるというだけの話です。法務省のホームページで公開されている「第34回司法試験委員会ヒアリングの概要」をみれば、コリン・ジョーンズ教授の発言が現実を全く見ずに単なる思いつきでなされた主張であるということが理解できます。

 ご存じのとおり、司法試験合格後は、司法修習生として司法研修所に所属して、前期修習を行い、その後全国各地で実務経験を積んで、最後にもう一度司法研修所に戻って後期修習を行って、2回試験に合格して初めて法律家になれます。その司法研修所でたくさんの司法修習生を見てきた教官が、上記のヒアリングにおいて、法科大学院卒の司法修習生について次のように述べています。

・ビジネスロイヤー志向が強く、刑事系科目を軽視している修習生が多いのではないか。

・口頭表現能力は高いと言えそうであるが、発言内容が的を得ているかというと必ずしもそうではない。

・教官の中で最も一致したのが、全般的に実体法の理解が不足しているということである。単なる知識不足であれば、その後の勉強で補えると思うが、そういう知識不足にとどまらない理解不足、実体法を事案に当てはめて法的な思考をする能力が足りない、そういう意味での実体法の理解不足が目立つ、というのが非常に多くの教官に共通の意見である。

 このように、司法修習生をたくさん見てきた司法研修所の教官が、しかもその非常に多くが単なる知識不足にとどまらず、理解不足、法的思考能力不足という意味での実体法の理解不足を、法科大学院卒の司法修習生に対して感じているのです。

 つまり上記の、研修所教官の意見を極論すれば、法科大学院卒の司法修習生は、ビジネスロイヤー(要するに金儲け)志向が非常に強く、口は上手いがその内容は正しいとは限らず、しかも法律の理解が不足している者が多い、ということになりそうです(あくまで極論です。優秀な方も相当数おられることは私も否定しません。)。

 問題が生じ、困り切って弁護士に相談される方は、いくら親しみやすかったとしても、金儲け主義で、口だけ上手く、法律の理解が不足している弁護士に依頼したいとは思わないでしょう。法科大学院はそのよう新司法試験合格者を安易に産み出していることをどう考えているのでしょうか。

 恐ろしいことに、法科大学院卒業の第1期生は、法科大学院側からも特に優秀な学生が集まったと評価されています(同じく司法試験管理委員会の法科大学院に対するヒアリングの概要参照)。その特に優秀な第1期生ですら、法律の理解不足が顕著なのですから、今後の法科大学院卒の司法修習生のレベルダウンは避けられないものといわねばなりません。法科大学院は自らの失敗・能力不足を認めて、直ちに廃止すべきです。

 ⑤に関しては、確かに法科大学院の目的の一つに、多様な人材を法曹界に導くという点があったことは間違いないと思いますし、その必要性も理解できます。しかし、法律家の質を下げてまで多様化を進める必要があるかといえば、そうは思いません。質の低い法律家がたくさん生まれた場合、最終的には国民は法律家ひいては司法制度自体を信用しなくなります。法律家を名乗っていてもその法律家の説明が正しいかが保証されないし、そのような法律家によって解決を提示されても納得できるはずがないからです。多様な人材を法曹界に導くとしても、それは最低限の能力と知識を有している者でなければならないはずです。

 そのような法律家の質が保証されていないことを棚上げして、多様化として考えようといわれても、利用する国民の側から考えれば、到底納得の出来る話ではないでしょう。

 ⑥に関しては、同じく第34回司法試験管理委員会ヒアリングにおいて、司法試験委員が法科大学院卒業の修習生と話したと思われる内容として次のような内容があげられています。

・若い人たちと話すと、なぜ法曹になったのかということすらよく考えていない。法科大学院でそういうことを話す機会はなかったのか、議論する機会はなかったのかと聞いても、そんなことは考えたこともないというような話を聞かされることもあり、これからの課題ではないかと思われる。

 このように法科大学院によっては、法律家になることだけを考え、なぜ法曹になりたいのか、という根本的な問題すら考えさせることが出来ていないところもあるのです。これでは、法律家を純粋培養するだけであって、脱エリートをいくら掲げても、絵に描いた餅に過ぎないでしょう。

 法科大学院にはあまりにも問題が多いと思われます。少なくとも質の低下が著しいことは重大問題です。現在の法科大学院生に十分配慮しながら、早急に廃止する必要がある制度であると考えます。

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