プロセスはもう聞き飽きた~2

(続き)

 もちろん法科大学院協会のこの意見書にも、プロセスによる教育とはどういうもので、どうしてプロセスによる教育でなければならないのかという点については、明確にされていない。9回もその言葉を用いるにも関わらず、内容が全くもって不明確である。

 言い方は悪くなるが、まるで何とかの一つ覚えのようである。

 唯一それっぽい点があるのは次の記述である。
「・・・・司法試験に合格する能力に到達していれば足りるという発想を転換して、法科大学院における教育を経ることにより、試験では確認できない能力を涵養するというのが、教育プロセスを重視し、法科大学院制度を導入した根本理念である・・・・」

 なるほど、教育プロセスを重視した法科大学院を出れば、司法試験では確認できない何か凄い能力が身につくのか(大したことのない能力ならわざわざ多額の税金を投入する意味はないでしょ)。法科大学院協会が言っているんだから、間違いないだろう。
 じゃあその能力って何なんだ。

 それは本当に実務で必要な能力なのか。
 仮にそのような能力が存在したとして、本当にその能力を身に付けさせることができているのか。
 明確に説明できないのなら、嘘か思い込みかのいずれかではないのか。
 

 そのような能力が身についていないと思われる、予備試験合格者に対して、大手法律事務所が(司法試験に合格していない段階でも)予備試験合格者だけを対象とした就職説明会を多数開催している(つまり大手法律事務所は、法科大学院で身につくかも知れない、そのような計り知れない能力など意に介していない。)ことは、どう説明するのか。
・・・と疑問は尽きない。

 でもその前に、司法試験は「裁判官、検察官又は弁護士となろうとする者に必要な学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする国家試験」とされているぞ(司法試験法1条1項)。つまり、司法試験に落ちるということは、「法曹として必要な学識と応用能力はまだ足りないね、もう少し勉強してきてね」、という試験委員の判断だ。このように、法曹になるために最低限必要な学識と能力を判定するのが司法試験なのだ。

 仮に司法試験に合格するだけの学識と能力を身に付けても、それは法曹として最低限度必要とされる学識と能力にすぎない。

 そもそも、法科大学院は法曹を養成する目的で設置されたのだから、司法試験に合格するだけの実力を学生に身に付けさせるだけの教育を行うことは当然のことで、それができないのなら債務不履行か詐欺的商法だ。
 そして、最低限司法試験合格の実力をつけさせたうえで、初めて、(正体不明の)試験で図れない能力とやらを身に付けさせるべきだろう。なんたって、法科大学院は法曹養成が目的なんだから。どんな素晴らしい能力か知らないが、試験で図れない能力を身に付けさせるよりも、まず、法曹として必要とされる最低限度の知識と能力を身に付けさせるのが最優先のはずだ。
 法科大学院制度は、少子高齢化の中での、大学側の生き残りの手段なんかじゃないんだろ。

 司法試験に合格するだけの実力を身に付けられない法科大学院生が、仮に司法試験では計り知れない能力を法科大学院で身に付けてもらったところで、合格できないのなら、結局法曹としてその計り知れない能力を発揮できないことは当然だ。法曹として最低限の学識と応用能力があって初めて司法試験に合格できるのだし、それ以上の能力を生かす場面にたどり着けるからだ。
 普通の仕事を普通にこなせた上で、仕事に個性や能力を発揮していくならまだしも、そこまで到達できていない段階で、えらそうに個性・能力なんていえないだろ。

 仮に、法曹の世界で能力を発揮できなくても、法科大学院で身についたその計り知れない能力は一般社会で十分意味がある、というのなら、わざわざ法科大学院だけで教えるなんてセコイことせずに、普通の大学でプロセスによる教育を取り入れて教えてやればいいじゃないか。その方がよほど学生も多いし、世の中のためになるんじゃないのか。

とにかく、法科大学院が振り回す「プロセス」という言葉には、謎が多すぎる。

本当は自分でも説明できないんじゃないのか?と思われても仕方ない面もあるような気がする。

 仮に、プロセスによる教育が、少人数双方向の密度の濃い教育を意味するのなら、私の受けた司法研修所・配属地での司法修習は、まさにプロセスによる教育だった。司法試験に合格し一定の能力が担保された実務家の卵に対して、一流の実務家がそれこそ心血を注いで教育をしてくれた。起案の添削なども信じられないくらい丁寧で、教官はいつ寝ているのだろうと不思議に思ったくらいだった。法曹としてのあるべき姿勢などについても、大きく影響を受けたと思っている。

 プロセスによる教育が上記の意味なら、プロセスによる教育は法科大学院の専売特許ではない。むしろ司法修習の方が、適切なプロセスによる教育が可能であるし、司法修習で実務家が行う方がより適切であると私は断言する。

 考えて見れば、当たり前だ。自動車の運転を習うのであれば現実に自動車を運転している人から習うべきだ。いくら大学でエンジンやブレーキの研究をし、自動車について知識が豊富であったとしても運転の経験がない人から、運転の勘所は習うことはできないからだ。

 法科大学院の教員の多くが実務経験者であるのならともかく、むしろ学者さんが多い現状では、法科大学院がいくらプロセスによる教育を標榜したところで、たかが知れているように思う。

(続く)

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