8月くらいのブログで、諏訪敦さんの展覧会に長野まで出かけた経験を書いたのですが、その後、諏訪さんが発表された絵画集「どうせなにもみえない」が、美術書では異例の1万部を突破し、なおセールスを伸ばし続けているそうです。
http://www.kyuryudo.co.jp/shopdetail/006000000016
諏訪さんの作品が何故多くの人を引き付けるのかについては、より専門的な方が本格的に書かれているでしょうから、素人の私は敢えて触れません。ただ、是非一度本物の諏訪さんの作品をご覧になって頂きたい、そうでなくても絵画集を手にとって頂きたい、と強く思っております。
諏訪さんの作品に触れることによって、作品に触れた方々それぞれの生き方、生きる時間に、何らかの衝撃を与えてもらえることは確実だと思うからです。
その諏訪敦さんが、先日NHK衛星放送の地球TVエル・ムンドに出演されていました。私は未だに衛星放送を契約していないので、NHKオンデマンドという有料ネット配信で見ることになりました。
諏訪さんのトークの中で、リアリズム絵画は暴力的だ、という興味深い発言がありました。 例えば、ある人を写実的に描いたときに、表面的に似ていれば、評価はされてしまう場合もある。それは表面的な描写に過ぎず、決してその人の全てを描いたことにはならない場合であっても、表面的にさえ似ていれば、評価されてしまう暴力的部分がある。
だから、せめて最低限取材を重ねようと(坂野注:本当のその人、個人の存在そのものに近づけようと、ということと思われます。)考えている。ということでした。
おそらく、諏訪さんは、本当に対象の全てを写し取ってキャンパスに定着させてこそ初めて写実絵画(として完成する?)なのだというお考えなのではないでしょうか。また、この世の全ての存在が不変でいられない以上、対象の全てを写し取るためには、対象が死の状態にある場合はもとより、まだ健在である場合であっても対象にいずれ訪れる最期・死の状態まで含めて描かねばならないことも当然あり得るということ、なのではないでしょうか。
死は、明治以降、隠蔽されたものとなってきたけれども、決して特別なことではない、(あらゆる存在にとって死は普通のことだという、当たり前のことを当たり前に表現しているだけなのだ、)というお話には強く同意できるように思いました。
また、諏訪さんの、「絵を描くときには、見る時間の感覚が通常と異なる。描くために見ているときには昨日見えなかったことが見えてくることがある。」というお話も、描く対象に向かってどこまでも誠実に向き合うからこそ、新たな対象の一面を発見できることがあるのでしょうし、そのために非常な努力をされているからこそ出てきた実感ではないかと思います。
お子さんが誕生されてから、時間の価値観や生きる目的が少し変わった点があるとのお話もありました。
これまでは到達すべき自分があったが、子供を見ていると、そのとき、そのときが素晴らしいと感じることがある。今この時点がゴールなのかもしれないと思うこともある、とのことでした。
しかし、諏訪さんはまだまだ到達すべき自分に向かって、自らを高めて行かれるはずです。11月30日の諏訪さんのブログには、描き直しという題名で、作品に手を入れられたことが報告されています。
http://atsushisuwa.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-f366.html
番組の最後に、諏訪さんにとっての、エル・ムンド(世界)とは?と問われて、諏訪さんがどう答えたかは、番組をご覧になるか、ご覧になった方にお聞き下さい。
ps 諏訪さんが尊敬する、アントニオ・ロペス・ガルシアの話になった際に、諏訪さんがぽつりと、「手が肉厚の人なんですよ」といったのが妙に印象に残りました。