思い出すことなど~駅伝

 昨日、高校駅伝・高校女子駅伝をやっていた。高校生が一生懸命、都大路を駆け抜ける姿は、京都の師走の風物詩になっている。

 今でこそ中年太りの私だが、実は中学時代は、太地中学校の駅伝の選手として東牟婁郡・新宮市の大会で走ったことがある。

 しかし私は、抜群に長距離が速いというわけではなかったと思う。種明かしをすると、私の通学していた太地中学校は、1学年2クラスしかない小規模中学校であったため、私も選手になるチャンスがあったと言うことだった。

 現在では安全の見地から太地町内の周回コースを使う駅伝大会になっているそうだが、当時は中学生の大会にしては本格的で、国道42号線を使って駅伝大会が行われていた。

 私は2区の担当だった。1区を6位で走ってきたO君が、たすきを渡すと同時に背中をぽんと叩いてくれた。

 走り出す前の緊張と心の高ぶりは、覚えているが、走っている途中に何を考えていたのか、今では思い出すことはできない。

 ただ、国道沿いの空き地に両親と父方の祖母、母方の祖父母が応援に来ていて、私の父親がカメラを片手に何かを叫んでおり、母親と祖父母がこちらを見ていたことは覚えている。後で両親に聞いたところでは、祖父母は何故か泣いていたそうだ。

 今でも国道42号線で自分の走った区間を自動車に乗って通ると、当時の記憶がよみがえる。

 幸い私は、6位を維持し5位の中学校に、あと一歩というところまで迫って、3区の選手にたすきを渡すことができた。

 後の選手の頑張りもあり、最終的には、太地中学校は3位に入賞した。選手と控えの選手には、賞状の白黒コピーが一枚ずつ配られた。そんなにきれいにコピーされていたわけではなかったが、嬉しかった。

 駅伝は、ある意味残酷である。どんなに早く走れる選手がいても一人では決して勝てない。体調が全員整っている保証もない。みんなが頑張っても、一人の不調で順位が大きく下がることもある。むしろ一人で走る方が、全ての責任は自分でとればいいのだから気は楽だ。

 しかし、だからこそ、みんなで勝ち取った勝利は素晴らしいものになるのだろう。そして勝利を得られなかったとしても、みんなで一緒に戦ったその記憶は、必ずや思い出という何物にも代え難い宝物になるはずだ。

 また、駅伝を目指しつつ正選手になれなかった選手(その数の方が多いだろう)も、残念な思いだけではなく、一つの目標に向かって必死に努力したことで、何かをつかんだはずだ。周囲は結果しか評価してくれないかもしれないし、自分でも気づかないかもしれないが、その努力の価値は、決して正選手に劣らない宝物と言っていいはずだ。

 私は、TVで応援しながら、宝物を手に入れたであろう選手たち全てを、柄にもなく、祝福したい気持ちになっていた。

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