「さようなら」の意味(続き)

 前回のブログで、 「さようなら」の語源について、二つの説を紹介し、より美しく感じられる説の方を支持したいと書きました。

 しかし、なぜ「そうならねばならぬなら」という説の方が、私にとってより美しく感じられるのか、少し考えてみました。

 おそらく、「左様ならず」という説では、相手よりも自分を中心に言葉を用いていますが、「そうならねばならぬなら」という説では、自分よりも相手を中心に考える、自己犠牲的な意味合いが込められているからではないかと思います。

 自分の幸せを中心に考えるなら相手と別れたくはない。しかし、相手が自分との別れを望み、相手の望み通りにすることが相手にとって幸せなのであれば、自分の幸せよりも相手の幸せを望み、自ら身を引こうと考える、そのような意味を、後者の説では感じ取ることができるのです。

 人間誰しも自分の幸せをつかみたいはずです。でも、本当に相手の幸せを考え、自ら身を引くことが相手の本当の幸せにつながるのであれば、悲しいけれども自らの幸せをあきらめ、相手の幸せを実現しようと考える。そう考えることは、人間だからこそできることなのかもしれません。

 相手のために自らの幸せをあきらめる際の、やるせない気持ちを、自分に納得させるために、「(本当は)そうなりたくはないが、そうならねばならない運命なら、運命にそって時の流れを下っていくしかない」 というある種の諦観を含んだ言葉として、「さようなら」と表現するから、後者の説の方が、痛みを伴いつつも美しく感じることができる理由なのかもしれません。

 最近は、そのように、本当の意味で相手の幸せを考えてあげられる人が少なくなってきているような気がします。ストーカー事件等は、その最たるものでしょう。みんなが自分中心の幸せしか考えられなくなってしまった世界はどんなに住みにくい世界でしょうか。

 私はやはり、「さようなら」は、後者の説が語源であって欲しいと思います。

「さようなら」の意味

 「さようなら」の語源については、平安時代の「左様ならず」が語源ではないかとの説が有力らしいのですが、別の説として「そうならねばならぬなら」という説もあるようです。

 前者の説だと、「さようなら」は、「(あなたの)思ったようにはなりませんよ。」という強い意志を感じる言葉に思われます。そして、後者の説だと「さようなら」は、「(本当は)そうなりたくはないが、そうならねばならない運命なら、運命にそって時の流れを下っていくしかない」 というある種の諦観を含んだ言葉と考えることができます。

 いずれの説をとるかで、まるで違う意味の言葉になるようにも思われますが、私はどちらの説も同じことを別の表現で表したものではないかと思います。

 別れを告げたい人からの「さようなら」は、前者の説の意味でしょうし、別れたくはないけれど別れを受け入れざるを得ないと思う人にとって「さようなら」と告げられる場合の意味は、間違いなく後者の説の意味でしょう。

 ただ、「さようなら」という言葉が、後に思い返してみたときに、(ある種の心の痛みと一緒であれ)美しい言葉に感じられるのは、おそらく、後者の説の意味で用いられた場合であることは、間違いないように私には思われます。

 そうだとすれば、「さようなら」という言葉が美しく感じられる説で良いのではないかと思うのです。

カラスの色

 小さいころ、「ふくろうのそめものや」という題名の絵本を読んだ記憶があります。

 その昔カラスは、真っ白な色が自慢でしたが、フクロウがいろんな鳥にそれぞれ、様々な色を付けて美しくしてあげていたことから、自分も羽根を染めてもらおうとフクロウの店に出かけます。そして・・・・・。

 詳しいお話は絵本を読んで頂くとして、かいつまんで言えば、どうしてカラスが全身真っ黒な色をしているのかが明らかになるというお話でした。確か日本民話がもとになっていたお話だと思います。

 絵本の影響からか、何となく子供のころから、カラスの色は黒いんだと思っていたのですが、よくよく見ると違うのです。

 私は通勤の際に京都の鴨川を渡るのですが、その橋の上によくカラスが留まっています。人間が怖くないのか図太いのか、私がよほど近くに寄らないと逃げないのですが、ある雨上がりの朝、陽の光に照らされた一羽のカラスの羽根が実に美しい色に見えたのです。

 色の表現はとても難しいのですが、深い輝くような蒼色を内に秘めた限りなく黒に近い色としか表現のできないような美しい色でした。もちろん、陽の光の影にはいるとその輝きはほぼ見えません。陽が(ある角度で?)あたるときだけ、美しい色に見えるようなのです。

 カラスといえば、勝手につや消し黒とつや有り黒の中間くらいの黒だと思いこんでいた私には、カラスの色がこのように複雑な美しさを秘めていたことは驚きでした。黒色一色とはいえ、自然は手抜きをしないんだなぁ・・と妙に納得した記憶があります。

時には愚痴も・・・

 弁護士という仕事は、人々の紛争の解決に当たる仕事であり、裁判は、当たり前ですが人々の紛争の解決手段です。弁護士により上手く紛争が解決できる場合も良くあるのですが、裁判は紛争が前提になっているだけに、全てがハッピーエンドに終わることはそうたくさんありません。片方の主張が通れば、片方の主張は通らないものですし、主張が通って判決が出ても様々な理由で結果的に満足できない場合もあります。

 仕事である以上は、依頼者の正当な利益の保護を目指して一生懸命に取り組みますが、その依頼者に煮え湯を飲まされたり、面子をつぶされることもないではありません。仕事だからと割り切って、耐えられればよいのでしょうが、時には、「俺は悪くないのに・・・・」と、ため息をつきたくなることもあるのです。

 司法試験合格後、司法研修所で修習を受けていた折りに、弁護教官が「ストレスとの上手な付き合い方を身につけないと弁護士は大変だよ。」と仰っていたことは、やはり真実だったなぁと、身にしみて感じるときもあります。

 弁護士だって人間ですから時には愚痴も言いたくなります。

 でも、つらいことがあっても、「自分を頼って下さる方がいる以上、前を向いて歩いていこう。」と思えるのも、人間だからかもしれませんね。

 宇多田ヒカルさんの「誰かの願いが叶うころ」という曲を聴きたくなりました。

センスを感じたTVCM

 何年か前の、JT(日本たばこ)のテレビCMに素晴らしい出来映えのものがありました。

 確か、田舎の古い家屋の軒下で、喪服を着た、老婆と豊川悦司が立っている。雨が降りしきる中、老婆が豊川悦司のたばこにそっと火をつけてあげる。というCMです。

 音楽はたぶん流れておらず、降りしきる雨の音と豊川悦司が最後に一言、「さよなら」という台詞をいうだけだったと思います。

 しかし、わずかそれだけのCMであるにも関わらず、様々なことを想像させてくれるCMでした。二人の喪服は誰のためのものなのか、二人の関係はどのようなものなのか、「さよなら」というトヨエツの台詞は何に又は誰に対する「さよなら」なのか。なぜトヨエツはたばこを吸わなければならない心境になったのか。またそれを察して火をつけてあげる老婆の思いと彼女の人生はどうだったのか・・・・・。

 「さよなら」という言葉しか出てこないのに、見ていた人それぞれに、きっとこんな状況なんだろうなと自然に物語をつくらせてしまう、そしてその物語はおそらく悲しいけれど決して未来を否定するものではない物語になるだろうと思わせる、そんな美しいCMでした。

 最近のテレビCMは、うるさいBGMと商品の一方的な押しつけが多いのですが、ほとんど印象に残りません。わずかな時間で印象を与えるためには、押しつけるのではなく、相手に自ら想像する余裕や時間を与えるほうが有効なのかもしれません。

京都大学中森ゼミ同窓会?

 先日、私の恩師である中森先生の刑法ゼミ同窓生で集まる会が開かれました。

 中森先生の研究室に集合して、中森先生に卒業後20年近く経過した京大を案内して頂き、その後懇親会を行うというものでした。中森先生は、京大の法科大学院の初代学院長をおつとめになっただけではなく、副学長・理事として京大全体の運営にも関わっておられます。中森先生は当時の出席簿や名簿、ゼミのレポートまで保管しておられ、驚きました。

 京都大学は、ずいぶんお洒落に変わっていました。私が入試を受けた時計台下の法経一番教室がなくなっていたり、司法試験短答式試験を受験していた教養部の建物がすっかり変わっていたりして、なんだか寂しい気がしましたが、これも時代の流れなのでしょう。テレビドラマ「ガリレオ」の影響からか、修学旅行中らしい女子高生が時計台の写真を写しており、私の学生時代ではとても考えられない光景でしたので印象的でした。

 私を含め、5名が中森先生の京大案内ツアーに参加でき、懇親会には後2名が参加して先生を含めて合計8名で旧交を温めることができました。中森先生をはじめ、ゼミ生だった皆さんも殆ど変わっておられず、また当然、皆さんの性格も以前と変わっていないものですから、すぐに以前のゼミのような雰囲気に戻れました。20年近くもの時を一瞬にして、巻き戻したかのような時間でした。とても楽しい時間を過ごせたと思います。

 私はあまり優秀な学生ではなかったのですが、そのような卒業生に対しても、「そんなん、君、〇〇やないか」と言葉ではばっさり切り捨てながらも、暖かく接して下さる中森先生は、本当に優しいよね、と参加者一同で話していた次第です。 

ハンガリーの子供鉄道

 ハンガリーの首都であるブダペストを訪れた際、子供鉄道があると聞きました。

 鉄道ファンでもある私としては見逃せないということで、乗車してみたのですが、これがなかなか、しっかりしてるんですね。小振りなディーゼル機関車に引かれてトロッコのような客車が走っていて、速度は遅いですが、なかなか良い雰囲気です。ただ、狭い線路巾ですので、乗り心地自体は、悪い方です。

 さすがに、機関車を運転するのは大人ですが、それ以外の切符売り、検札、進行管理(出発の合図)は、全て子供達が働いているようです。しかも、その働きぶりが実に良い感じなのです。

 鉄道の仕事を一生懸命にこなしているという自信、自分たちの1人1人がしっかりしなければ運営できないという責任感、そして何より自分がその仕事をやれることに対する誇りなど、仕事に対する素直で真摯な姿勢がストレートに伝わってきました。また、非常に楽しそうに働いているため、見ているこちらも良い気分にさせてもらいました。 きっと辛いときもあるでしょう。暑さ寒さや、うまくいかない人間関係にさらされるときもあるはずです。

 しかし、子供達はそのようなことを乗客には一切見せません。

 ともすれば、口を糊するために仕事をしてしまいがちな大人が多い中、仕事の意味を理解し、プライドを持って自分の仕事に対して一生懸命に向き合うことの尊さ、そしてその一生懸命さが周囲に与える良い影響を、子供達の働きぶりから見せてもらったような気がします。

やはりなかった弁護士需要

 本日、大阪弁護士会所属の弁護士に配布された、月刊大阪弁護士会11月号によると、国内企業3795社に対して、社内に弁護士を採用することを考えている企業は、回答1129社の内、53社しかありませんでした。

 しかもそのうち、14社は、1人採用して様子を見たいというお試し組ですから、弁護士採用に本当に前向きな企業は、1129社の内39社、わずか3.5%もありません。そして、回答した企業1129社の内、今後5年間で弁護士をどれだけ採用する予定があるかという質問に対しては、全て併せても47人~127人しか採用予定がありませんでした。1年あたり、全国の主な企業でわずか10人から25人しか、企業側は弁護士を必要としないと考えているのです。

 全国の企業で5年でわずか47名~127名しか採用が見込めないのですから、弁護士人口を増加させる大きな理由であった、弁護士の需要が大きいという理由は、全く絵空事であったことが明らかになりました。それにも関わらず、日弁連は、弁護士増加にストップをかけようともしません。

 法科大学院側から優秀と太鼓判を押された新60期の修習生ですら、司法研修所教官があきれるほど実力のないものが相当数含まれており、今後更に弁護士の増加を図ろうとすれば、弁護士全体の質は低下するばかりです。 弁護士全体の質が低下してしまえば、国民から弁護士に頼んでもきちんと対応してくれないという不満が噴出し、さらに司法に対する信頼は失われるでしょう。例えば、自分が手術を受けなければならなくなったときに、誰が信頼できない医師に依頼するでしょうか。弁護士が扱う仕事は、依頼者の一生に関わる仕事も多いのです。そのような仕事を任せることができない弁護士が増加したら、国民はもはや信頼できなくなってしまった司法による解決を望まなくなってしまうにちがいありません。そうなってから、慌てても、遅いのです。一度失った信頼を取り戻すことは、非常に困難です。

 このように社会の需要もない上に、法科大学院で法律家の粗製濫造の危険が高まっているのに、なんら手を打たず傍観しようとする日弁連会長平山氏の見識を疑わざるを得ません。

 日弁連会長を含めた日弁連執行部は、こんな簡単なことも理解できず、若しくは分かっていながら、結局、後10年、20年先のことなので高齢者である自分たちには関係ない、とりあえず任期中のメンツさえ守れれば良い、と言わんばかりの状況です。

 いい加減にしないと、本当に第二日弁連構想が若手弁護士から出てくるかも知れません。

大阪弁護士会隠れ?会費

 先日のブログで、年間の弁護士会費50万円以上と書きましたが、同期で金沢で開業しているネクスト法律事務所(http://homepage2.nifty.com/next-law/index.htm)の細見孝次弁護士から、誤っていると指摘を受けました。なお、細見弁護士はダスキン大肉まん訴訟においても中心的な活躍をされた優秀な弁護士です。私の郷里の女性を奥さんにされていることからも親しくお付き合いさせて頂いております。

 大阪弁護士会では、基本会費は(日弁連会費を含めて)50万円程度ですが、隠れ会費が驚くほどあって、弁護士会にピンハネされているというのです。細見弁護士によると、法律相談に一度派遣されると弁護士会から一回につき12000円~16000円支給されますが、実は大阪弁護士会に1.5万円から2万円をピンハネされた残りが支給されているだけなのだそうです。

 また、弁護士会経由で依頼が来た事件については、弁護士着手金・報酬にそれぞれ7%の負担金が課せられます。これまで裁判所から依頼されていたはずで殆どボランティアに近い国選の刑事事件も5%の負担金を弁護士会に納める必要がありますし、裁判所から直接依頼が来る破産管財事件でもなぜか7%の負担金を大阪弁護士会に納入する必要があります。(私もこれらの点を忘れていました。)

 確かに細見弁護士の指摘からすると、大阪弁護士会は隠れ会費を含めて相当高額な弁護士会費を徴収していることになり、その会費を背景に考えれば、(私は建設に反対しましたが多数決で建設が決定した)豪華な弁護士会館を大阪弁護士会の執行部が建設する気にもなっても不思議ではありません。細見弁護士は、金沢弁護士会に登録替えする直前に試算したところ、少なくとも年間100万円くらいは弁護士会費を支払っていることが分かったそうです。

  細見弁護士によると、金沢弁護士会は、大阪弁護士会のように隠れ会費のない明朗会計で、月額約5万円だそうです。それでも隠れ会費を含めて支払っている大阪弁護士会の会費より相当安いと思えるそうです。

 これからは、経営者弁護士の事務所に居候する弁護士(イソ弁)から、事務所の軒先を借りるだけの弁護士(ノキ弁)が多くなり、さらには就職できず自宅でいきなり開業する弁護士(タク弁)が増加するそうですが、いずれ大阪弁護士会のような高額な弁護士会費を平気で徴収している弁護士会では、若手の反乱が起きるかもしれません。

広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像

 国宝第1号としても有名な、広隆寺の弥勒像です。私はこの弥勒様が大好きです。同じくらい好きな仏像に奈良興福寺の阿修羅像がありますが、それについては、いずれ触れたいと思います。

 弥勒菩薩とは一般には、釈迦入滅後56億7千万年のちに現れ、衆生を救うといわれています。

 私は、大学時代に京都にいましたので、時々お寺をまわっては仏像を見ることもありました。その際に、広隆寺で弥勒菩薩像を見たのですが、他の仏像とは何か異なる印象をうけました。

 上手くは言えないのですが、おそらく長い年月信仰の対象とされてきた仏像には、それぞれに信心を捧げた人の思いのようなものがこもっているように感じられることが殆どです。それまで見てきた、仏像はいずれも多くの人の思いがこもっていて、祈りを捧げた人たちが仏像に込めた何らかの力が、仏像から放たれているような感じを受けることが多いのです。

 ところが、広隆寺の弥勒菩薩は、私にはそう感じられませんでした。あくまで優しく、市井の人々のあらゆる思いを、ただひたすらに静かに受け止めているように思えました。

 例えとしては不適切かもしれませんが、人間が誰も足を踏み入れることができず、目にすることも叶わない深い山奥に、澄んだ水をたたえた小さな湖があり、何かを放り込んでも決して水面が乱れることもなく、水も濁らず、また音を立てることもなく、すっとその中にしまい込んでしまうような感じを持っている、といえば多少は私の感じた弥勒菩薩の印象に近いでしょうか。

 もちろん、私の印象に過ぎませんから、きっと違った感じを受ける方も多いでしょう。ただ、あまりにも素晴らしい仏像なので、京都観光の際には必見の仏像の一つであることは間違いないと思います。京都太秦に行かれる際には、映画村も良いですが、是非広隆寺の弥勒様にお会いされることをお勧めします。