司法試験受験生の方へ

 新司法試験は終わってしまいましたが、旧司法試験受験生の方は、論文試験まで後一月あまり、ラストスパートに入っておられることでしょう。私の知人で受験している人はいなくなったので、もう、敢えて書く必要はないのかもしれませんが、何かの参考になればという思いで少しだけ、お伝えさせてください。

 昨年もブログで書きましたが、旧司法試験で問われているのは「正確な基礎知識と論理力」に尽きます。何度も申しあげますが、単なる基礎知識ではなく「正確な」基礎知識です。もう一度基礎知識を確認して正確に身に付いているかチェックすることです。

 そして、最良の問題集は過去問です。短答式試験でも過去問が最良の勉強ツールであったことを思い出してください。短答と同じで、過去問をきちんと解ける受験生を司法試験委員が落とすはずがありません。直前答案練習会では、最新判例や最新の論点が出題されてあせるかもしれませんが、それに過度にこだわる必要はないと思います。知っていれば少しだけマシかもしれないという程度です。

 それよりも、正確な基礎的知識をもとに論理的に明快な文章を書けるよう、気をつけてください。直前期に一気に伸びる人はたくさんいます。

 あと少しです。体調に気をつけて勉強してくださいね。

体内時計

 何かの本で、人間の体内時計はおおよそ25時間周期であるというようなことを読んだ記憶があります。なんでも、全く時間が解らないようにして生活するという実験をすると、人間は次第に25時間を一日として生活するようになってしまうのだそうです。

 ところで、地球の自転周期は、ものの本によると、約23時間56分4.06秒くらいです。そうすると、25時間を1日と考えてしまう人間の体内時計とは、1時間と4分もずれてしまいます。その体内時計のズレを毎朝調整して生きているのが人間なのだといわれています。

 太古の昔から地球上で進化を続け、毎日毎日をほぼ24時間として生活してきたはずの人間の体内時計にしては、ちょっとズレが大きいような気がしませんか。

 この点、地球のお隣の惑星である火星の自転周期は、約24時間39分35.244秒なのだそうです。そうすると、人間の体内時計が1日と感じる25時間とは、わずかに20分ほどしか違いません。つまり人間の体内時計は、地球の一日とされる時間よりも、火星の一日とされる時間を、より一日に近いと感じるようなのです。

 そうすると、体内時計を基準に考える限り、なんだか人間の祖先が火星から来たのかもしれないと考えても、おかしくないような気もしますね。

今朝の出来事

 今朝事務所に向かう途中、大阪市役所の近くの交差点で信号待ちをしているときに、視界の端に動くものがありました。

 何だろうと思ってよく見ると、障害者の方用の黄色い、信号押しボタン装置の上に、一冊の文庫本が載っていたのです。カバーはすでにありません。背表紙が日に焼けているところからすると結構古そうです。自動車が近くを通り過ぎるたびに、自分の存在を訴えるかのように表紙と何枚かのページが踊ります。

 よく手袋やハンカチなどの落とし物を拾った方が、目立つようにと置いておくことはありそうな場所ですが、文庫本は初めて見ました。

 あまりにミスマッチな気がしたせいか、なんだか文庫本付近だけが音のない世界にあって、音のない世界でページがめくられ、また音もなく元に戻ることを繰り返しているような不思議な感じを受けました。

 何故だか、梶井基次郎の「檸檬」を、久しぶりに読みたいと思いました。

法曹人口問題会内集会

 昨日、法曹人口に関する大阪弁護士会の会内集会がありました。私は、アンケート結果の発表係にされていましたから、会員の方が座られる席ではなく、前方の発表者側の席になりました。つまり弁護士会の会長・副会長、PT座長のいらっしゃる席の末席に連なる形になってしまったので、そんな場所に座り慣れていない私は、結構緊張してしまいました。

 会内集会は150名以上の方が参加してくださり、常議委員会に対するPTからの中間報告書案に対して、非常に活発な意見が交換されました。ただ、意見をおっしゃる方は40期以前の方が多く、法曹人口問題で一番つらい立場に置かれていると(少なくとも私には)思われる、50期代以降の方の発言が少なかったのが残念です。
 いまだ、大阪弁護士会においては、上の期の先輩方に向かって率直に意見を申し上げる土壌はまだまだできていないような気がしました。まあ、上の期の先輩方もしゃべりたがる方が多いので、なかなか割って入って発言するのも大変だったとは思いますが。

 PTの委員の先生方の発言も多く、私も発言したいと思っていたのですが、司会者側の席から手を挙げて発言するのもなんだか変でしたので、やむなく、黙っていました。それがおかしかったのか、私のPTでの態度や発言をご存じの川下・森、両副会長からは、終了後に「坂野君の言論を封じることになっちゃったね。ストレス、溜まったでしょう?」と冗談を言われてしまいました。

 ひとつ、気になったのが「この問題で大阪弁護士会の会員が一致する契機ができた」という趣旨のご発言があったように思うことです。その当時のいきさつは、私にはわかりませんが、弁護士会の会員が分裂してしまっており、話し合いもろくにできない状況にあったということなのでしょうか。

 子供の喧嘩でも、しばらくすれば仲直りします。もしこれまで仲直りができずに、お互い喧嘩を続け、結局、どんどん悪くなっていく事態を放置していたのであれば、大坂弁護士会の対応は、この点に関する限り、子供の喧嘩以下のレベルだったのではないかと思ってしまいます。

 素直に状況を分析し、理念だけにとらわれるのではなく、弊害があるのであれば直すべきは直す、間違いがあったのであれば謝るべきは謝る、で良いのではないでしょうか。もう、ええカッコしている時間はないところまで追い込まれているような気がします。

 メンツよりも大事なことがあるはずです。

教会で聴く音楽

 教会と聞くと堅苦しいように思われるかもしれませんが、ヨーロッパのキリスト教教会は、一部を除いて原則として、日中は立ち入り自由のところが多いようです。

 街の散策に疲れたり、急な雨で困ったときは、教会の中で休ませてもらったりしたこともあります。

 たまに、教会に立ち寄った際に、パイプオルガンや合唱の練習に出会うこともあります。私は、オルガンの音色がとても好きなので、そのようなときにはラッキー♪と思って、しばらく聞いていたりします。

 特にバッハのオルガン曲が演奏されているときなどは、とても素晴らしい気分にさせてもらえることもあります。私の知人が、教会での音楽は、音楽がぐるぐる回って昇っていくようだ、と表現したことがありますが、私の印象は似ていますが、少し違います。

 上手く言えないのですが、教会で美しい音楽を聴いた際、私達の座っている地上から、天に向かって音楽という名の儚く、美しく、壊れやすい、硬質の透明な螺旋階段が、すっとのびていくように思えるのです。そして、その階段は、その儚さ・美しさ・壊れやすさ故に、無論私達自身が登れるものではありません。私達の切なる願いを届けるものでもないようです。地上から天へと向かって伸びる階段ではありますが、人間が主体となって伸ばしていく階段ではないようにも思います。

 むしろ天上から何かをさしのべるために、神(という存在があるのであればですが)が、演奏家に命じて音楽を奏でさせ、天と地を一瞬だけ結ばせるように取りはからった、その結果、地上と天を音楽で結ぶことが許されているのではないかと感じられます。ですから、地上から天へと向かって伸びる階段ではあるのですが、同時に天から地上へともっと大きな流れがあるような気がするのです。

 結局、何のことかよくわからなくなっちゃいましたね。感覚を伝えようというときには、いつも言葉足らずになってしまい、もどかしい思いをします。

 とにかく、もし、機会があれば、是非一度教会での音楽を体験されることをおすすめします。

法曹人口問題PTその6

 本日の、法曹人口問題PT会議は、予定より大幅に延長されて議論が続きました。

 もちろん、増員反対でない立場の先生もおられるので、全会一致というわけにはいかないのは当然です。

 様々なご意見があって、確かに参考になったのですが、本当に若手が現実に抱いている危機感についてご理解して頂いているのかよくわからない先生のご発言もありました。確かに従来の弁護士会執行部の態度との継続性なども必要なのかもしれませんが、実際に弊害が出ているのであれば素直に過ちを認めて、是正すべきではないかと思います。

 その是正する力こそが、弁護士会執行部に必要とされる力なのではないでしょうか。従来の態度との継続性と現実の弊害と比較すれば、いずれが大事かは、一目瞭然ではないかと思うのです。

 ただ、そういっても私も若手の一人に過ぎず、私の言う「若手の意見」が、本当に若手の意見をきちんと代弁できているとも限らず、私なりの観点で発言しているに過ぎません。

 6月9日の会内集会では意見交換の時間もあります。是非参加して、様々な方のご意見を聞いてみて下さい。

人形劇

 小学生のとき、両親に連れられて初めて東京見物に行った際に、劇団プークの人形劇を見ました。

 演じられた出し物が何であったのか、どうしても思い出せないのですが、面白かったという印象だけは強く残っています。

 その印象が残っているせいか、海外旅行に出かけた際には、美術館・博物館よりも、人形劇があるとつい心が引かれてしまいます。

 といっても、人形劇が年中開催されているわけではないので、これまで、ミュンヘン・プラハくらいでしか見物できたことはありません。

 なかでもプラハは人形劇が盛んな街のようで、土産物屋でもマリオネットがよく売られています。私はプラハのミノール劇場で、偶然、子供向けの限定公演?を特別に見ることができました。

 切符売り場の人が、なにやら(多分子供限定だから駄目だということだったのでしょう)言っていたのですが、私があまりにも言葉がわからなかったため、仕方なく入れてくれたような感じでした。ほかの観客といえば、平日の午前中でしたので、引率されてやって来た幼児か小学生しかいなくて、本当に見せてもらって良いのか、席に着いてからも落ち着かなかったことを覚えています。

  出し物は、言葉が全くわからないこともあり、何のことやらよくわからなかったのですが、非常に工夫されているようでした。出演者の熱演もあって、子供達がどんどん引き込まれ、夢中になっていくのが感じられました。全てを劇中で見せて説明してしまうのではなく、紙芝居・絵本のように次々とシーンを見せて、そのシーンの間にあったであろう出来事を想像させているようにも見えました。

 全く出し物が異なる夜の部の一般公演も見ましたが、なぜだか、子供達だけに向けて実施されている(と思われる)午前の部の公演の方が記憶に残っています。このような劇を見ることができるプラハの子供達は恵まれているのでしょう。

 機会があれば、是非もう一度、訪ねてみたいと思っています。

日経新聞 法務インサイド

 本日の日本経済新聞朝刊「法務インサイド」のコーナーで、鳩山法相と第2東京弁護士会の久保利弁護士が法曹人口問題などについて対談を行っています。

 詳しくは日経新聞をお読み頂くとして、私個人の感想を言わせて頂くと、「久保利弁護士の御主張の根拠はいったい何なのか教えて頂きたい」というものです。

 久保利弁護士は、鳩山法相が「基礎、基本を全く知らない人がいると司法研修所の人が驚いています。基本がなくては活躍もできないと思いますよ。」と質の低下について危惧した発言をされたのに対し、「一定のレベルは必要ですが(中略)法律学の知識だけでは良い法曹にはなれません。研修所を出てからのトレーニングで伸びていくわけです。」と若干かみ合わない反論をされています。

 鳩山法相は、法律学の知識だけが必要だとは述べていません。いま、現に基礎・基本が解っていない修習生が出現するほど質が落ち始めていると主張しているのです。

 また、久保利弁護士の言われるとおり研修所を出てからのトレーニングで伸びるとしても、現在司法修習生の弁護士事務所への就職難は、非常に深刻です。先輩弁護士に付いて、トレーニングを受ける機会すら保証されない新人弁護士が多数出現する可能性が高いのが現状でしょう。この危険を久保利弁護士はどうお考えなのでしょうか。久保利弁護士がきちんと教育をされるおつもりなのでしょうか。

 更に言えば、久保利弁護士はこれまで、ご自身で採用されてきた弁護士を教育されてきたのでしょうが、それは今までの司法試験を突破した弁護士であり、基礎・基本にあまり問題が出ていない弁護士であったと思われます。もしその次に久保利弁護士が採用した弁護士が基礎・基本がきちんとできていなかった場合、久保利弁護士といえども、きちんと教育できるかどうかは未知数でしょう。

 久保利弁護士の御主張どおり今後も弁護士の数を増やしていけば、、基礎・基本が解っていない弁護士が先輩弁護士からトレーニングを受けることなく(久保利弁護士の御主張によれば「一人前の法曹として伸びる機会もなく」、ということになるのでしょうね)、依頼者の事件を実際に処理しなければならなくなる場合が明らかに生じます。そのような危険な行為を放置しようと言うのでしょうか。

 また久保利弁護士は、弁護士の数について、「完全に不足。弁護士は2万5千人しかいません。足りているというのは全く目が曇っています。」とまで御主張されます。

 それでは、なぜ、新人弁護士の就職難がここまで深刻なのでしょうか。弁護士が不足なのであればどこの事務所でも新人弁護士が欲しくてたまらないはずです。それに、あれほど過払バブルといわれ、過払い金返還訴訟が激増しているといわれていながら、司法統計によれば、訴訟の数が減少傾向にあることは何故なのでしょうか。 司法統計が誤っているのでしょうか。

 私には久保利弁護士の御主張の根拠がどうしても理解できません。

 さらに、久保利弁護士は「戦前、陪審裁判をやっていました。今の日本人にできないのなら、劣化しているということです。」とも述べておられます。

 確かに戦前である1923年に陪審法が制定され、陪審制度が導入されたた事実はありますが、辞退者が相次ぎ、第二次大戦中に停止されています。

 久保利弁護士の御主張は、誤りではないでしょうが、陪審裁判が刑事事件一般にあまねく行われていたかのような印象を与える点でミスリーディングな発言だと思います。

 大きな影響を与えるマスコミでの発言ですから、紙面の都合もあるのでしょうが、もう少し根拠をわかりやすく、また誤解を招きにくい表現で説明して頂きたかったと思います。

法務省も認める質の低下

 法曹人口問題PTで配付された資料ですが、次のようなものがありました。

http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/minutes/wg/2007/0508_02/summary050802.pdf

 長文になりますが、是非一度お読み下さい。法務省の佐々木宗啓参事官(司法研修所の民裁教官も務められた方です)が、法曹人口を増加させるとしても質を落としてはいけない。一般の国民の方に害を与える危険が高まってしまう。現に相当質が落ちつつある。と警告されています。

 ところが、これに対して規制改革会議の大学教授達は、学者とも思えない揚げ足取り、非論理的な反論を浴びせています。ついには、「否認と抗弁の違いがわからなくても良い」「弁護士の資格なんてなくても良い」など、信じられない主張までしています。増員問題においては、弁護士を社会生活上の医師と位置づけているのですから、極論すれば、「医者は風邪と癌の違いがわからなくても良い」、「(競争させれば能力のある人が残るから)医師の資格なんてなくても良い」と言っているのと同じです。

 これではたくさんの弁護士を調査するお金と能力のある大企業や富裕層は被害を被ることはないでしょうが、一般の方々は被害を被ります。

 つまり、再びわかりやすくするために、お医者さんに例えて話しますが、どんどん資格を与えて自由競争させればいいという考えは、藪医者でも何でも良いからたくさん医師の資格を与えて競争させればいい。駄目な医者はつぶれるから問題ないじゃないか。という考えです。

 最低限のレベルが保証されていないのですから、ある人が病気になって病院を探し、そこの医者が医師免許を持っていても、その病院で診察を受けて大丈夫かどうか解らないということです。何人かの方が、その病院で不適切医療で被害を被り、その事実が次第に知れ渡った後で、初めてその病院が駄目だということが、みんなにだんだん解ってくるはずです。

 確かにそのような藪医者は、つぶれることになると思われますが、その医者がつぶれるまでに被害に遭ってしまったひとは救われるのでしょうか。またそのような被害を受けてまで自由競争させて欲しいと、本当に一般の方は考えているのでしょうか。

 私は疑問だと思います。

 彼ら(規制改革会議の大学教授連中)の言い分からすれば、とにかく市場原理が消費者のためになるという主張ですから、大学の教員だって、教授・准教授・助手・講師・非常勤講師、あらゆる教員に全て大学教授の肩書きを与えて自由競争させればいいことになります。

 後は学生の批判や研究業績の評価という市場原理で淘汰してもらえばいいのですから。市場原理を振り回す彼らの言い分からすれば、その方が学生・世の中のためになるはずです。

 彼らが、それでは大学教員全体のレベルが下がる、学生受けの良い教員だけが生き残る、教員のレベルを判断することが困難な学生が迷惑する、大学の自治が危惧される、というのであれば、弁護士の増員問題には、その趣旨の反論はもっと適合するはずです。

 大学教授と異なり、我々弁護士には、今現実に問題を抱え、解決を望む方が実際に来られているのですから。

Posted by sakano at 20:02  | パーマリンク |
2008年05月30日
日弁連総会

 本日、大阪弁護士会で日弁連総会がありました。

 これまで一度も出たことがないので、出てみたいと思っていたのですが、その日に法律相談と、当番弁護が当たっていたので、駄目でした。しかもこの日は総会に出るため出動可能な弁護士の方が少ないらしく、法律相談から帰ってみると、当番弁護を2件当てられてしまいました。

 1件は先ほどすませましたが、もう1件は、勾留質問の行われる裁判所から警察の留置場まで、まだ帰ってきていないようです。 裁判所も大変ですが、こっちも時間が取られます。

 結局、総会に出るために東京から来られた、同期の野村弁護士とお会いする予定だったのですが、それも駄目になってしまいました。野村弁護士とは大阪での刑事裁判修習中に同じ部に配属され、私は彼のことを「ノムさん」と呼びながら、もう一人同じ部に配属されていた藤澤さんと一緒に、とても楽しく修習させて頂いた記憶があります。

 ノムさんもブログをやっています。

http://nomura.asablo.jp/blog/

 結構いろんなことを考えている人です。会ってみるととても面白い方なので、今回お会いできなかったことがとても残念です。

教養選択

 大昔の司法試験の論文試験は7科目あり、憲法、民法、刑法、商法、訴訟法(刑訴・民訴いずれか)・法律選択科目・教養選択科目が、試験科目でした。その後教養選択が廃止され、法律選択がなくなって両訴選択とされた経緯はご存じのとおりです。

 (受験歴の長い)私は、教養選択科目で、心理学を受験科目として選択していました。法律科目と違って非常に面白く、受験科目中唯一のオアシス的な科目でした。

 ただ、その心理学を勉強中に、知覚心理学の分野で、もっと早く生まれていれば・・・とすこしだけ悔やんだことがあります。

 私は小学校に2キロの道を歩いて登校していました。雨天のときと下校時だけはバスに乗っても良いと親からいわれていました。寒い冬は、しもやけができて相当辛かったりもしたのですが、秋などはイガ栗を拾ったりして、意外に楽しかった覚えもあります。ところがある日、15分くらい歩いた後、登校途中の道でちょっと立ち止まってみると、道路が自分からどんどん遠ざかっていくように見えました。不思議なことだと思って、一緒に歩いていた姉妹にも教えたのですが、やはり同じように見えたようです。これは私としては非常な大発見だと思っていたのですが、そのうち忘れてしまいました。

 また、電車通学をしていた高校生のころ、踏切を見ていたときに、踏切の警報機の赤ランプが右左に移動して見えているけれど、これは右と左の赤ランプがそれぞれ点滅しているだけで、本当は移動も何もしていないことにふと気づきました。これも不思議だなと思ったのですが、そのうち忘れてしまっていました。

 私の記憶では、知覚心理学の分野では、前者は運動残効、後者は仮現運動というものだと説明されていたような気がします(間違っていたら済みません)。本で読んだときには、いずれも自分で既に発見していたものでしたから、もう少し早く生まれていれば発見者として名を残せたのに・・・・などと考え、残念な気がしたことを覚えています。

 法律選択科目以外に教養選択科目があったため、昔の司法試験合格者の方は、いろいろ特色があったように思います。 新司法試験にも選択科目はあるようですが、多様な人材が必要なら教養選択を入れてみたらどうでしょうかね。