「死の島」 アルノルト・ベックリン

 何とか司法試験に合格した後、司法研修所での司法修習が開始される前に、私はヨーロッパへ旅行することが出来ました。

 その旅行は、アルノルト・ベックリンの「死の島」という絵を見ることが最大の目的でした。実は、中高生の頃に福永武彦という作家にはまっており、彼の長編小説に「死の島」というものがあり、そこでベックリンの「死の島」という絵の存在を知ったのです。

 現存する、ベックリンの「死の島」のうち見ることができるものは、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ドイツのベルリン美術館、ライプチヒ美術館、スイスのバーゼル美術館が所蔵する合計4枚であったと思います。そのうちの3枚がヨーロッパにあるので、その3枚とも見てやろうと思ったわけです。

 ドイツ統一からそんなに時間が経っておらず、東ドイツ時代を彷彿させるライプチヒ美術館で見た「死の島」が最も私の気に入ったもので、強く印象に残っています。司法研修所に入ってからも、寮の部屋に「死の島」のポスターを貼っていたりしたので、クラスのNさんから「坂野君は宗教画を飾っている」といわれた記憶があります。

 ちなみに、「死の島」について私は宗教画だとは思っておりませんが、暗い感じの絵であることは否定できないかもしれません。なんと言っても、棺を乗せた小舟が糸杉の立つ小さな島(墓所?)へと近づいていく絵なのですから。しかしその神秘的かつ幻想的な絵からは、人間が五感で感じられる静けさとは異なる静謐な世界が感じられる気がするのです。

 ベックリンについてはウィキペディアをご覧になれば分かりますし、そのページに『 「死の島」1883年ベルリン美術館』と書かれている画像がありますから、どのような絵かはお分かりになると思います。ただし、今掲載されているウィキペディアの絵はベルリン美術館所蔵の絵ではなく、1886年制作のライプチヒ美術館所蔵の絵ですので、表示に誤りがあると思いますが。

「ときには星の下で眠る」 片岡義男著

 信州のある秋、よく世話になっていたバイク屋の親父さんの葬儀に高校時代の仲間が集まる。それぞれが、普段の生活では思い出すことのない高校時代の様々な想い出を胸に抱いている。決して止まることがない時間の流れを感じ、次第に色を失い透明になっていく想い出を引き留めるかのように旧交を温め、そしてまた普段の生活へと戻っていく。

 私は、大学時代はバイク乗りでした。京都の免許試験場で、何度も挑戦してようやく中型2輪免許を限定解除し(自慢じゃありませんが、限定解除試験は司法試験より当時は難関と言われていました。)、中古ではありましたがスズキのGSX-1100S(通称刀イレブン)を手に入れ、北海道から九州までユースホステルを利用しながら良くツーリングに出たものです。

 その頃、片岡義男の小説が角川文庫からたくさん出ていました。お読みになればお分かりだと思いますが、この小説も淡々と物語が始まり淡々と進行し、淡々と終わる、いつもの片岡ワールドです。読むにもそう時間はかかりません。ただ、随所にほんとうにバイクに乗ってツーリングをしたことのある人でないと分からない経験が織り込まれていて、頷かされる箇所もあります。

 バイクを売却することになった際、ほとんどの片岡義男の小説は処分してしまいましたが、この本は処分しませんでした。処分するには何かが引っかかったようです。「想い出」という、将来においては、宝物でありながら処分に困る場合もある、やっかいな財産と、登場人物達が上手につきあっているように思えたのかも知れません。

 寝る前に、安楽椅子にでも座って気楽に読むには、とても良い本だと思います。 

角川文庫 絶版(古本屋で探してみて下さい。)

「モモ」  ミヒャエル・エンデ著

 知らない間にどこからかやって来た不思議な少女「モモ」。モモに話を聞いてもらうだけで町の人は救われた気分になり、モモと一緒に遊ぶだけで子供達はとても面白い遊びをいくらでも思いつくことができた。ところが、時間貯蓄銀行の外交員を名乗る灰色の男達が現れる。彼らは人間の時間を奪う「時間泥棒」だった。時間泥棒に時間を盗まれた人々は時間に追われるようになってしまう。モモは、盗まれた時間を人々のために取り戻せるのか。

 時をテーマにした児童文学のもう一つの傑作として紹介したいのが、「モモ」です。非常に有名なお話なので、ご存じの方も多いでしょう。

 何事にもスピードが要求される現代社会で、豊かな時間を過ごすこと、自分らしく時間を過ごすことは、ともに非常に難しくなっています。
 作者のエンデは、時間泥棒に時間を盗まれた世界を描くことで、実にうまく現代社会の状況を物語に変えて、私たちに提示してくれます。しかも、時間泥棒を生み出すのを助けたのは人間自身なのです。

 そして、時間の国で人間の時間を司っているマイスターホラに次のように語らせるのです。

 「人間は、ひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ生きた時間でいられるのだよ。」
 「光を見るために目があり、音を聞くために耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」

 もう、私たちは、物語に変えて示してもらわなければ、気づけないほど、時間泥棒に時間を盗まれてしまっているのかも知れません。

 どうも仕事に追われ過ぎているようにお感じの方は、お盆休みがとれるのであれば、ご一読されることをお勧めします。ちょっと夜空の星でも眺めようという気持ちになれるかも知れません。

 ちなみに、8月13日にはペルセウス座流星群が極大日を迎えます。晴れていれば、たくさんの流れ星が観察できると思います。以前見たときは、少し尾を引く美しい流星が多かったと思います。

岩波少年文庫800円(税別)

「トムは真夜中の庭で」 フィリパ・ピアス 著

 弟が麻疹にかかってしまったため、庭もない市街地の叔父さん夫妻の家に隔離されたトム。初めての叔父さんの家でなかなか寝付けないトムの耳に、階下のホールで大時計が真夜中に、13回時を告げる。不思議に思ったトムが階下におり、裏口のドアを開けるとそこは、あるはずもない大きな庭園が広がっていた。そこでトムはハティという女の子と巡り逢うが・・・・。

 あまり、傑作という言葉は使わないのですが、この本は、時(とき)をテーマにした児童文学の傑作の一つだと私は思っています。

 誰でも小さいときに持っていたはずの、「黄金の時のような素晴らしい想い出」はどこに行ったのでしょうか。そのような想い出は、大人になった後でも、確かに意識して思い出そうとすれば思い出せますが、知らぬ間に記憶のよどみに沈めてしまっているような気がします。しかし、大人になればこそ、当時の想い出が非常に素晴らしく価値があるものであったことが理解できる面もあります。

 この本の終わり近くにハティがトムに語ります。「トム、そのときだよ。庭もたえずかわっていることに私が気がついたのは。かわらないものなんて、なにひとつないものね。私たちの思いでのほかには。」

 そのとき私は、この本が実は、2面性を隠しているのではないかということに、ようやく思い至りました。 私の中で、この本をトムの物語ではなく、ハティの物語として読み始めていたことに気づいたからです。

 子供にとってはトムの冒険譚、大人にとってはハティの心の旅路。 そう読めても不思議ではない本です。

 小さい頃にこの本を読んだ記憶のある方でも、もう一度読み直してみて下さい。子供の頃にこの本から受けた印象ときっと違う、もっと深い、大人になった人にしか分からない何かを感じるはずだと思います。

岩波少年文庫 756円(税込)

怪談の読み方

 時折過ごしやすい日があるものの、やはり夏ですね。寝苦しい夜も多いです。私の住んでいる京都では、若者が鴨川の河原で花火をよくやっています。あまり夜遅くまで花火をされると、近所に住んでいる身としては、ちょっと迷惑なのですが、夜空に消えていく打ち上げ花火を帰宅途中に見るのも悪くありません。

 さて、夏と言えば、怖い話の季節でもあります。

 昔話になりますが、小学校の先生に、怪談の正しい楽しみ方(こわくなる秘訣?)を教えて頂いたことがあります。

 その先生によると、怪談を思いっきり楽しむには、次のようにするのがよいそうです。

 ① できれば、他の家族が旅行などで不在であり、一人っきりで留守番をしている夜が良い。

 ② クーラーをつけずに、窓を少し開け、扇風機で我慢しながら読む。

 ③ 部屋の電気は消して、枕元に電気スタンド(ランプ、ろうそくならなお良い)を用意して読む。

※ランプ・ろうそくは危険ですし、目を悪くするおそれがありますので、ご注意下さい。

 ④ 音の出る器具(テレビ・オーディオなど)は絶対にならさないこと。 

 ⑤ 必ずうつ伏せで読むこと。

以上の5点が秘訣なのだそうです。

 確かにうつ伏せになって、枕元のスタンドだけで読んでいると、扇風機の風で影が不意に揺らいだりするのが目の端に入ります。それでも、読み続けていくと、不思議と、だんだん布団が重くなってくるのです。何かがゆっくりと布団に乗ってきているような気がします。いつもは聞こえない猫の鳴き声が聞こえてきたりして、開けたままの窓を閉めておけば良かったと後悔しますが、もう遅いのです。

 布団の重みは更に増してきます。しかしあなたは振り返らずにはいられません。そのときの恐怖と来たら!

 自分でやってみても分かりますが、確かに布団がだんだん、だんだん重く感じるようになります。 ちょっとしたお化け屋敷以上の恐怖が味わえます。

そして僕は天使になった  池谷剛一 文・絵

 ある日僕はあたりまえのように死んでしまった

 この絵本は、いきなり衝撃的な文章で始まります。
 表紙の挿絵と題名からは、想像もつかない始まりです。
 主人公は、飼い主より先に死んでしまった犬ですが、犬本来の姿で描かれるのは、最初の2ページ目までと、飼い主との日々を回想するページだけです。

 静かで、でも何故かほっとする絵が、次第に読み手の心を温めてくれるような気がします。
 この絵本の犬のように、真っ白い月の光の中、親しい人との素晴らしい想い出だけを抱いて、天に帰れるのなら、天使になるのも悪くない・・・・・と素直に思えます。
 

 大事な人を失った人、何らかの別れにより傷ついた大人の方向けの絵本ではないかと思います。
 「素晴らしい想い出だけを静かに、大事に抱いて、待っていて下さい。」そんな気にさせてもらえる絵本かもしれません。

光琳社出版1800円
(現在ではパロル舎より1500円(税別)で出されているようです。)

「ゆき」 斎藤隆介著 

 天上に暮らし、天と地を真っ白な雪で清める雪の「じんじい」と「ばんばあ」。しかしこの頃は、潔白な雪で下界を清めても、雪はたちまち真っ黒になってしまう。下界で悪いことが行われているからだ。「じんじい」は「ばんばあ」との間の娘である雪ん子を、下界におろし下界の掃除をさせると言いだした。もしも下界の汚れに負けてしまえば、雪ん子は消えてしまう。下克上時代でもあった室町時代末期、野盗や領主を名乗る地侍、あくどい地主、等がはびこる東北の農村を、雪ん子は、村の地面いっぱいに汚れないきれいな雪がつもる世界に変えていけるのか。そして、外の敵がいなくなったときに初めて分かる心の中の敵に打ち勝てるのか。

 斎藤隆介って誰?と思われる方がほとんどかもしれません。しかし、絵本の「モチモチの木」、「八郎」、「三コ」、「花さき山」に「ベロ出しチョンマ」の作者である事までお伝えすれば、誰でも一度は読んだことのある本の作者である事に気づかれるでしょう。

 近代は人の自我の確立の時代でもありますが、近代から現代に至るまで、自我の確立・主張を重んじるばかり、人は、優しさや、思いやりを次第に失っていきがちであり、人として大事なことを失いつつあることにすら気づいてこなかったのかもしれません。それは、自分の心の中にある敵に知らず知らずのうちに屈してしまっている状態とも言えると思います。作者は農民達の心の中にある敵を「神人」として表現し、「ゆき」と対決させます。そして、作者はあとがきで、「心の中の敵とたたかうことは、ほんとうににむずかしいものですね。でも、それとたたかって勝たなければほんとうに勝ったということはできません。ゆきは、勝ったのでしょうか、まけたのでしょうか。」と読者に問いかけます。今から40年ほど前に書かれた作品なのですが、競争社会化が著しい現在では、より重い問いかけのように思えます。

 他人の苦しみや痛みを思いやり、理解し、そしてその痛みや苦しみを黙って見逃すことが出来ない人物を描いた短編を数多く書いてきた斎藤隆介が、初めて書き下ろした長編童話がこの「ゆき」です。滝平二郎の切り絵による挿絵も素晴らしく、絶版となっているのが非常に残念です。図書館等にはあるかもしれませんのでもし見つけられたら、童話であるというだけで敬遠せずに、一読されることをお勧めします。

ps 個人的には宮崎駿さんに映画化して頂けたら、すごいのに・・・・と思ってしまいます。

「ひまわりの祝祭」 藤原伊織 著

 真夜中、突然、かつての上司であり大学の先輩でもある人物が尋ねて来て、500万円を賭博で一晩で使い切って欲しいという奇妙な依頼を主人公にする。主人公には賭博に関して一種独特の才能があった。非合法カジノに向かった二人はそこで、主人公の亡き妻とうりふたつの女性と出会う。主人公の妻英子は何年か前に自殺していた。妻は妊娠を隠していた。妻の死にまつわる真実を探り始めた主人公は、7作品しか現存しないと言われる、ファン・ゴッホの残した8作品目の「ひまわり」が鍵であることにたどり着く。果たして本当にファン・ゴッホは8枚目の「ひまわり」を残していたのか、主人公の妻の自殺の理由は何だったのか?

 同作者の「テロリストのパラソル」が乱歩賞と直木賞を史上初めてダブル受賞した事で有名ですが、この作品も非常に素晴らしいものであると思います。主人公は、一見さえない中年男で、幼児性を残していると周囲から指摘される人物です。読み進めていくと分かるのですが、銃の達人でもあり、真相に迫る際の頭の切れ具合も鋭すぎるくらいで、中年の主人公が(しかもハードボイルド小説の中で)、自分を指す一人称として「僕」を用いていることに違和感を覚えるかもしれません。
 しかし、この本のラスト近く、英子の自殺の理由を主人公が悟る場面で、何故読者に違和感を感じさせかねない「僕」を用いて作者が話を進めてきたのかが理解できます。感情を排し、短い文章を淡々と積み重ねたその部分は、この本の白眉であると私は思います。すでに語られた、まばゆく美しい「僕」と英子の高校時代の描写が効いています。
 様々な読み方があるでしょうが、私はこの小説を、主人公と英子の愛の話として読みました。もちろんミステリーとしても非常に面白い作品になっていると思います。

 一言で言えば、格好良くて悲しい物語。そう読めました。

講談社文庫 752円(税別)

「幻の女」 ウイリアム・アイリッシュ著

 やってもいない妻殺しの罪により、死刑を宣告された主人公。証拠は全て彼の犯行を裏付け、控訴も却下された。しかし、違和感を覚えた捜査担当の刑事は、直感で主人公の潔白を信じ、主人公に親友に依頼して、無実を証明するための唯一のアリバイ証人を探してもらうようアドバイスする。

 そのアリバイ証人とは、主人公が行きずりで食事と観劇をした、名前も分からず、顔も覚えていない、へんてこな帽子をかぶった女であった。主人公の死刑執行を18日後に控え、親友は必死にその女を捜す。しかし、親友が手がかりに近づくたびに、まるでその女が幻であるかのように、その女への手がかりは次々と失われていく。容赦なく近づいてくる死刑執行の日。女は主人公の記憶の中だけに存在する幻の女なのか・・・・・。

 この小説はサスペンス小説の古典的名作といわれ、ミステリー小説の読者投票などでも常に上位にランクされる作品ですから、すでにご存じの方も多いと思います。それでも、まだ読まれていない方には、是非ご紹介せざるを得ない傑作です。どんどん主人公の死刑執行の日が近づいて来る構成ですので、できれば、途中で休まずに一気に読まれた方が、盛り上がるし、緊張感もとぎれなくて面白いと思います。素直に作者の導くまま読み進めていくと、結末の意外性に仰天させられること請け合いです。

ハヤカワ・ミステリ文庫 840円(税込)