明日、司法試験合格発表

明日は司法試験の合格発表の日である。

受験生諸氏は、合格しているかどうかで落ち着かない状況だろうと思う。

閣議決定から司法試験合格者年間3000人という目標を外す提言を、法曹養成検討会議が行い、また、司法研修所のクラスが削減されるのではないかという噂もあり、今年の司法試験合格者数は注目されるところである。

私の予想は1900人前後であるが、特に根拠はない。敢えて言うなら合格者減員に向けた第一歩をそろそろと踏み出すのではないかという感覚だけである。

合格後のことに関連するが、司法修習生の採用面接をしていて思うのは、「どこまで勉強して知識を身に付けているのかよく分からず怖い」ということである。私が受験していた頃の司法試験では、どうしてあの実力者が合格できないんだと不思議に思われる現象が多分にあった。つまり非常によく勉強されていて誰からも(場合によっては大学教授からも)確実に合格できる力がある、と思われていた人でも何度も足踏みをせざるを得ない場面があったのだ。

試験は水物と良く言われるが、それだけ競争が厳しかったので、合格する実力がないのにまぐれで合格する人は極めて少なかったように思う。だからこそ、司法試験に合格していればある程度の実力は保証されていると考えても、採用側は大怪我をすることはなかった。

ところが、今の司法試験は、三振制度のため受験回数を重ねたベテラン実力者は事実上存在できない。法曹志願者の数は減少の一途で、受験者の層も薄くなっている。そのうえ、合格者数が多いので、実力不足でも合格してしまう危険が相当高くなっている。つまり採用側としては、司法試験合格が弁護士としての最低ラインを保証してくれない状況にあるため、ハズレを引く危険性が極めて高くなっているということだ。

幸い、私はまだ、そんなことは経験していないが、もしハズレを引いたら悲惨だ。膨大な時間を投入して何度仕事を教えても、結局使える起案ができず、その上、給与を支払わねばならない。ボス弁にとっては頭痛の種となる。ただでさえストレスの多い仕事なのに、そんなストレス誰だって嫌に決まっている。

弁護士になれば六法を参照できるから、考え方さえできていれば、知識なんて、後で身につければいいというお考えの方もいるだろう。しかし、法律問題は数学に似ているところもあり、事案に対応する制度、条文を知らなければ解決方法が全く思いつけない場合もありうる。

(天才的な人を除けば、)数学だって類題を解いた経験があればその経験を参考に早急な解答もできるが、全くの未知の問題であれば対処できなかったり、対処できても相当時間がかかったりするはずだ。これと同じで、弁護士も依頼者に解決策を提示したり事件の見通しを立てたりする前提として、「ある程度の知識」は絶対に必要なのだ。そして、(天才的に頭が切れる方は知っているが)法律の天才という人間には残念ながら出会ったことはない。センスの有無はあるだろうが、法律という分野においては、多くは努力で身に付けて行くものだからではないだろうか。

ところが、上記の「ある程度の知識」すら、今の修習生に身についているのか大きな不安が、正直言って私にはある。

もちろん、従前から述べているとおり、現行制度であっても優秀な方の存在は否定しない。毎年一定数の方は旧司法試験合格者と同程度に優秀であるはずだろうと思うが、その数は減少傾向にあるのではないかというのが私の感覚である。

例えば、いま、「担保物件の通有性について説明せよ」と言われて、直ちに正確な説明ができるだろうか。私達の受験時代では、すらすらと説明できれば予備校の基礎講座へ行っても多分ついて行けるだろう、つっかえながらでしか説明できなければ予備校の入門講座からやり直せ、といわれていたこともある。司法修習生でありながらこの問に答えられないなど論外である。

司法試験合格のために、全科目の判例百選をつぶし(勉強し)、近時の重判までつぶしていただろうか。少なくとも私達の頃は最低限の常識だった。場合によればそのような連中と、2年以内に法廷で戦わなければならないかもしれないのだ。本当にあなたの今の力で、困っている方々とともに戦えるのか、良く自問してみて欲しい。おそらく多くの方は、怖いと感じるはずだ。

だから、受験生諸氏にお願いしたいことは、合格された後こそ、真剣に勉強して欲しいということだ。合格の席次が悪くても、集合修習での起案の成績を加味し、合格後・修習中の努力を評価して採用を考察することもある。

私は、受験生諸氏の合格を祈念しつつ、その後の努力にも期待したいと思っている。

司法試験報道について

今日から司法試験が始まった。それに関連して、読売新聞社が5月15日(水)13時50分の配信として、ネット上で以下の記事を出していた。

(引用開始)

裁判官などの法律家をめざす人が受験する司法試験が15日、東京、大阪など全国7都市の計11会場で始まった。

法務省によると、受験者数は7653人(速報値)で、昨年(8387人)に続き、2年連続で減少した。試験は4日間行われ、合格発表は9月10日。

法科大学院修了者が受験する新司法試験が2006年に始まってから増加していた受験者数は、昨年初めて減少に転じ、今年は減少幅がさらに広がった。合格率の低迷で法科大学院の入学希望者が減ったことなどが、受験者数の減少につながったとみられる。

一方、法科大学院を修了しなくても、合格すれば来年以降の司法試験の受験資格を得られる「予備試験」は5月19日から始まる。予備試験の出願者数は過去最多の1万1255人で、法科大学院離れが顕著になっている。

(引用ここまで)

合格率の低さが、その試験から志願者を遠ざけるのなら、平成23年の予備試験など対志願者合格率約1.29%、合格者の増えた平成24年でも合格率2.4%しかなかったのだから、予備試験は合格率からいえば司法試験より10倍以上厳しい門である。仮に合格率低迷と志願者減少がリンクしているなら、予備試験志願者は激減していなければおかしいだろう。

ところが、実際には上の記事にもあるように、司法試験予備試験の志願者は増え続けている。

一体、いつまでマスコミは、一部法科大学院教授が言い張っていることを鵜呑みにして(若しくは法科大学院は広告主だからおもねって)、合格率の低さを法科大学院志願者減少と結びつけた報道をし続けるのだろう。

口述試験など

私が司法試験の受験生であった頃、司法試験には、口述試験が課せられていた。

一流の実務家や学者2名が試験官(主査・副査)となり、くじ引き(封筒の中に番号札が入っているくじ)で順番を決められた受験生が、たった1人で2名の試験官の前に座らされて、15~20分間口頭で質問を受けて返答するという試験である。もちろん受験生レベルの勉強で、一流の実務家や学者に知識面でかなうはずもなく、付け焼き刃など一瞬で見破られるという、受験生からすれば大変恐ろしい試験だった。
また、司法試験受験生のうち、口述試験までたどり着ける受験生の数はわずか3%程度だったので、口述試験がどういうものなのか、情報も極めて少なかった。

そのためか、口述試験に関しては様々な噂が飛び交っていた。

一番有名な噂で最も信じられていたものが、一番くじを引いた受験生と、最後の順番のくじを引いた受験生は落ちない、というものだった。実際には、当時の口述試験の合格率は95%程度あったので、1番くじを引く・引かないに関係なく落ちる人の方が圧倒的に少なかったのだが、少しでも安心したいのが受験生の心理だったのだろう。1番くじを引いた場合は、試験官としても受験生のレベルを最初の受験生で測るため落としにくい、ラスくじを引いた場合はかなり長時間待たされるのでかわいそうだから落としにくい、等といわれていた。
伝聞だが、口述試験に失敗したと思った受験生がいたが、1番くじを7科目中4科目、ラスくじを2科目で引いたので助かった、等との噂もあったように記憶している。さらに、その人にどうやって6つも落ちないくじを引いたのか尋ねたところ、『「封筒が光って見えた!」と答えた』等、ほとんどオカルトまがいの話までくっついていたりもした。

噂は、それだけではない。

上手く応えられなかった受験生が試験官から灰皿を投げつけられたとか(伝聞なので真偽は不明)、緊張のあまり妙な答えをした受験生に対して試験官が優しく諭すように「勉強が足りなかったんだね、今年は、僕が、責任を持って君を落とすから、来年頑張るように。」と、受験生からすれば絶望的な言葉を聞かされた(伝聞なので真偽不明)とか、恐ろしい話も多々あった。

私は、刑訴・刑事政策を選択していたのだが、当時刑事政策では森下忠教授と、藤本哲也教授が学者試験委員の先生方の中では、大御所であり中心的な方々と言われていた。両先生の問題意識が司法試験の試験問題に反映されるかもしれないということで、森下教授や藤本教授が、それぞれお勤めの大学で実施された授業の中で、どのような分野から講義が開始されたのかなどについても、受験生は神経を尖らせていたくらいだった。

森下先生は、確か1924年のお生まれだから、もう相当のお歳のはずだ。判例時報に「海外刑法だより」という論考を定期的に掲載されておられた。私は、特にその論考を愛読していたわけではないが、表紙に記載される森下先生の名前をときどき見かけて、未だに頑張っておられるのだな、と思っていた。

ところが、先日の判例時報№2177(平成25年4月21日号)で、横浜弁護士会会長談話という異例の記事が掲載されていた。その記事によると、国選弁護人名簿登載についての事前承認手続き、国選弁護人としての推薦手続に関し、森下先生が、ご自身の所属する横浜弁護士会と一悶着あったようである。

問題の記事は判例時報2153号、2159号、2162号で、「弁護士会による取調(上)、(下の1)、(下の2)」として連載されたようだ。

森下先生と横浜弁護士会の言い分のどちらが事実として正しいかについては、私には分からないとしか申しあげようがない。しかし森下先生の仰る事実が正しいとしても、弁護士職務規程49条からすれば、お返しするつもり受け取り、実際に3日後に返還したとはいえ国選弁護で担当した方の親族から金銭を受け取ってしまった行為自体を問題にされても仕方がないと思われる。

通常では、国選弁護の親族が自発的に御礼を申し出た場合、誰にも迷惑をかけないから良いのではないか、と思われるだろう。しかし、そのようなことが横行してしまえば、国選弁護でも弁護士に何らかの謝礼を渡さなければきちんとした弁護をしてくれないのではないかとの疑念を国民の皆様に与えかねない。そのような事態になれば、国選弁護制度が崩れてしまう。

だからこそ、弁護士会は潔癖なまでに国選弁護に関して関係者からの対価の受領を禁止しているのだ。国選弁護の対価として国から弁護士に支払われる金額は悲しいほど少ない。
それにも関わらず、国選弁護の制度を守るために、弁護士会は可能な限り厳しく自らを律するよう求めている。
こんな業界、今どきそんなにないと思うんだけどなぁ。

司法試験合格発表に思う

先日、司法試験の合格者が発表された。合格者数2102名で、私の予想は外れてしまった。

昨年より若干増えたことが、新聞各紙で報道されていたように思うが、なんのことはない、従前の法科大学院卒業合格者数に、予備試験合格者数を加えた人数になっているようなものだろう。

ちなみに、予備試験合格者の合格率は、予想通り高く、最も合格率の高い一橋法科大学院を大きく上回っている。私は従前、「予備試験制度が新司法試験を受けても良いだけの基礎的素養があるか、つまり法科大学院卒業生レベルの素養が身についているか、を確認することを目的とする資格試験」でありながら、合格レベルをその目的に照らして異常なまでに高く設定しすぎではないかとの指摘をしてきたが(当職の2012年3月8・9日ブログ参照)、おそらくその指摘は正しいことが明らかになったのではないだろうか。

山岸日弁連会長は、司法試験合格者について会長談話を発表している。日弁連の提唱する1500人より多いことについて遺憾であると述べた点は評価できるが、予備試験について、「予備試験を経て今回最終合格した者の年齢、学歴、経歴などを踏まえ、予備試験が上記制度趣旨に沿ったものとなっているかどうかについて検証・分析がなされるべきであると考える。」と述べたことについては賛成できない。

(あくまで法科大学院側の自称だが)素晴らしいスタッフと設備を揃え、プロセスによる素晴らしい教育を行っていながら、予備試験組に惨敗した法科大学院の方こそ、多様な背景を持ちつつも優れた法曹を養成する、という制度趣旨に沿ったものになっているのか検証・分析すべき対象だろう。

余談になるが、今年、大阪弁護士会で、法科大学院に関して討論会がなされたときに、予備試験を批判する法科大学院賛成派に業を煮やして、私は、ちょっと嫌みになりますがと前置きして、「それなら、○○先生(法科大学院擁護派の大事務所の先生)の事務所では、予備試験出身の修習生を採用しないんですか?」と聞いてみた。
司会者の△△先生(法科大学院擁護派)が、「そんな問題じゃないでしょう!」と一喝してきたが、予備試験ルートではなく法科大学院ルートでなければと主張するなら、予備試験ルートの修習生を採用しないのが筋というものだ。

その後、「○○先生のところでも、予備試験ルートであっても、優秀でいい人なら採用するでしょ?」(○○先生頷く)「だったら、法科大学院が良いといってもその程度なんじゃないですか。」というやりとりになったと記憶している。その後の○○先生の反論もあったと思うがちょっと覚えていない(○○先生スミマセン)。

確かに、大阪弁護士会の極めて優秀な先生が法科大学院の教授になっているところもあり、私自身、その先生方の講義を聴けたらどれだけためになるかと思えるような魅力的な法科大学院もある。しかし、物事にはタイミングというものがある。上記の優秀な先生方の講義は、合格して、実務を少しかじってから聞くほうがはるかに理解しやすいと思うし、ためになるとも思う。おそらく未修者が聞いてもその先生方の講義の素晴らしさは理解できない可能性が高いのではないか。

今の制度のように、芽吹くかどうかも分からない田んぼ一面の籾の全てにお金をかけて(法科大学院で)育て、若葉になったらお互いの成長を妨げるほど群生していても間引きもせずに(大量合格者)、自己責任だからといって放置する(貸与制)方法と、旧司法試験制度のように、自力でしっかり成長してきた苗に十分お金をかけて育てる(給費制)方法とでは、優れた稲を育てる観点から見たときに、後者の方が圧倒的に効率がよいことは明らかだ。

元々出来もしないのに、田んぼ一面の籾全てを育てようとしている法科大学院には、何百億という税金が補助金として投入されているはずだ。明らかに税金の無駄遣いだ。また、法科大学院の学生の経済的負担も大きい。

他にもいろいろ突っ込み処はあるが、やっぱり、法科大学院という制度は、おかしすぎる。

明日、司法試験合格発表

明日の午後4時に今年の司法試験合格者が発表される。

司法試験合格者激増のため、昨年は、弁護士会の一括登録時において、司法試験に合格し司法修習を終了した弁護士志望者の約2割にあたる400名ほどが弁護士登録できない事態になっていた。
また、司法試験の採点雑感では、採点者から、優秀・良好・一応の水準・不良の採点基準で、「一応の水準」でも合格させているとの指摘があるほど全体としてのレベルダウンが指摘されている(法務省HPで平成23年の採点実感等に関する意見参照)。

総務省が合格者数目標数値(3000人)の見直しを勧告し、政府が司法試験合格者数目標数値を2000人に引き下げる方針であると報道された今年は、どれだけ合格させるのか興味深い。

それでも、私は、今年の合格者数は2000人弱くらいと予想する。

これまで3000人目標で合格者2000人前後(目標の約67%)だったことからすれば、2000人目標だとすれば、1350名前後でもおかしくはない。
しかし、そこまで合格者を絞れば、法科大学院・文科省が自らの教育の問題を棚上げにしてでも黙っていないだろうし、法務省にも、「だって合格させられるレベルにないんですから・・・」と断言する勇気はないだろう。

本来、一応の水準の答案しか書けないのに、司法試験に合格してしまうのはおかしい。しかし、政府の合格者目標数値があるから、法務省としては、仕方なく合格させている実態があるのだと推測する。

だが、私は実感として思うのだ。私は、受験開始3年目で2000番台には、入っていたはずだ。そこから合格するまで、丙案(若手優遇策)の犠牲者になったこともあり、7年かかった。合格してから振り返ると、2000番台の実力なんて、到底弁護士になるための基礎の基礎すら出来ていないレベルだった。

現在では法曹志願者が激減しており、実質競争率は下がる一方だ。このまま2000人程度の合格者を継続して、本当に法曹界は大丈夫なのか。競争による淘汰が出来ると主張する人もいるが、仮に淘汰が出来るとしても、淘汰はいつまでたっても終わらない。毎年大量に新人弁護士が生み出されてくるからだ。

法律事務所が新人弁護士採用の際に、司法試験の成績表を提出させることが多くなっているのも、司法試験合格が合格者の実力(法曹の最低限度の実力)を保証しなくなっていることの裏返しではないか。

いずれにしても、明日の合格者発表は注目だ。

司法試験雑感3~真夏のセーター

私が司法試験受験生だった頃、京都大学には、全学共通の総合図書館と、学部の図書館があった。

「司法試験受験生が、図書館を占拠して困る」と苦情がでたくらい、図書館を長時間利用する者が多かった。総合図書館は、明るく若手の受験生が多いという評判で、法学部図書館は落ち着いておりベテラン受験生が多いという噂もあった。私は総合図書館を利用していた。

ある年、5月の短答式試験を終えて、発表があり、幸い合格できた私は、梅雨時でじめじめして暑い日に、ある文献を探しに法学部図書館に入った。

そこで見かけたのは、この蒸し暑いさなかにセーターを着て勉強をしている司法試験受験生の姿だった。タオルで何度も汗を拭いながら基本書を復習するその姿は、鬼気迫るものを感じた。

暑さ対策だった。

当時の論文式試験は、7月後半の梅雨明けの最も暑い時期に行われていた。しかも、会場は京都大学で、ほとんど風が通らない教室で、当然冷房なんて設置されていなかった。そんな教室に、詰め込まれて試験を受けたのだから、受験生の熱気と夏の暑さの相乗効果で、体感気温は40度を等に超えていたと思う。試験の最終日には倒れる人まで出るという(私も見たことがある)、苛酷な試験だった。

途中から、試験会場が同志社大学に変わり冷房が入るようになって助かったが、それまでの京大での論文式試験では、女性の受験生はもう下着丸見えに近いタンクトップで受験していたり、みんな首にタオルを撒いて汗が答案に落ちないよう工夫したり、ヒヤロン(使い捨て冷却剤のはしりのようなもの)を使うなどしながら、汗みどろで戦う壮絶な試験だった。試験官も大変だったろうが、受験生はもっと辛かった。

特に、京大時計台下の法経第1教室(今はもうない)などは、窓が小さく、なおさら風通しが悪いので、受験経験者に聞くなどして、願書を早めに出すと法経第1教室に当たりやすいと聞くと、その教室に当たらないように、願書を出願期限ギリギリに出すなどして、受験生は必死に工夫をしていた。

それだけ、みんな必死で、人生を賭けた試験だった。

司法試験雑感2~サヨナラ答案

先日、ホームラン答案の話をしたが、それと似て非なるものに、サヨナラ答案と言われるものもあった。

何もサヨナラホームランという劇的な逆転の一打というわけではない、その一通だけで不合格を決定づけるだけの答案、すなわち、その年の受験は終わり(サヨナラ)という、悲劇の答案なのだ。昔の司法試験は、実力者がそれこそ合格の順番待ちをしているような状況であり、大きめの失敗一つで十分サヨナラ答案となりえたのだ。

実は、私もサヨナラ答案を書いてしまった、苦い経験がある。確か、司法試験論文式を3度目に受験したときだったと思う。当時の商法の問題は、会社法から1問、手形法から1問という慣例が続いていた。

先に手形法の答案を書き終え、思ったより手形法に手こずったため、会社法の設問が今ひとつピンと来ないまま時間に追われて書き始めてしまったのが躓きの最初だった。

時間に追われていたため、ろくな答案構成もできず、書いて行くうちに形になるやろと思って、書いて行ったのだが、答案用紙の表面を書き終え、裏面の1/4まで来たところで、どうも、これは間違った内容を書いているような気がしてきたのだ。

その気持ちで、問題と答案を見てみると、やはり違う気がする。

こういう時は不思議だ。

なんか変だ

→ひょっとして間違っているのか?

→間違っているような気がする

→やはり間違っている気がする

→間違っている

→間違っているに違いない!

→絶対に間違いや!!

とあっという間に思考が巡る。

間違った答案を長く書いても、全く評価されない。ここは思い切って書き直すしかない。時計を見ると時間は残り15分しかない。

心の中で泣きながら、ここまで苦心して書いてきた答案に×印をつけて、新しく書き始める。

しかし悲劇は終わらない。

新しく書き始めた答案も、途中で読み直すと違っている気がする。×をつけてしまった前の当案で良かったような気がしてきたのだ。

ここでも先ほどと同じように、疑いはあっという間に確信に変わる。

論文試験初日の3科目目という、ほとんど心神耗弱状態だから無理もないが、もう頭の中はパニックを越えてアナーキー状態である。

「うわ~、助けてくれぇ!!!!」

と心の中で叫ぶ声が聞こえる。もはや心の中では号泣状態だ。

それでも、当たり前だが試験会場では誰も助けてくれない。

その後の記憶は、余り残っていない。確か、新しく書いた答案部分に×をつけ、最初につけた×印を取り消しますと書いて、 続きを書いたように思うのだが、余りのショックで記憶が飛んだのか、今思い出そうとしても、どうしても思い出せない。

これがサヨナラ答案という奴か・・・・・。

そう思って、足取り重く家路についたことは覚えている。やけに夕陽がまぶしく、下宿まで時間がかかったような記憶がある。

その年の成績は、当然のごとく、商法は最低の点数評価であった。

サヨナラ答案の破壊力も凄まじいものだった。

司法試験雑感1

新司法試験が、現在行われている。

今日は試験の中日で、おやすみだそうだ。私の時代は、5月の短答式(マークシート)、7月の論文式、10月の口述式、と3段階の試験があり、短答式を合格しなければ、論文式は受験できず、論文式を合格しなければもちろん口述式試験も受験できなかった。

ところが、新司法試験は、短答式試験と論文式試験をまとめて行うので、試験にも中日を設定したのかもしれない。

私たちの頃は、司法試験は合格率数%の時代だったので、数々の面白い話があった。

論文式試験は、7科目14通、(その後6科目12通に減少)だったので、1通の占める割合が大きい。したがって、ヤマを当てれば、結構なアドバンテージになると信じられていた。受験雑誌なども論文式試験前には、「ヤマ当て本」など、出そうな論点を特集したりしており、懐も寂しいのに、つい買ってしまったりしたものだ。

 しかしたまには本当にヤマを当てる人もいて、ほぼ完璧に準備していた分野が出題されて、自分でも絶対高得点に違いない、と確信する場合もあったようだ。

そのような答案は、当時、ホームラン答案といわれていた。

ホームランは狙って打てるものではないが、打てた場合の破壊力は大きい。

私の大学時代のゼミ友達で、14通中、ホームラン答案を間違いなく8通は書けたといっていた人がいた。受験回数もわずかだった人であったが、論文試験後、「どうしよう、俺、ホンマに受かるかもしれん。」と、動揺していたくらいだ。

もちろん彼は合格した。

試験である以上、当然受験生それぞれにとっての問題の当たり外れはある。得意分野の問題ばかり出る場合もあれば、不得意分野ばかり出て、どうして運命は俺に試練を課すのか!と嘆きたくなる場合もあるはずだ。

いずれにしても、受験生の皆さんの健闘を祈ってやまない。

司法試験の対策

 私はツイッターで、司法試験論文式採点雑感等に関する意見を、少しずつお送りしています。

 最近、私が関西学院大学で演習を担当したときに、司法試験を目指してLSに行くといっていた学生さんからメールが届きました。

 彼曰く、

追記:ツイッターで坂野先生をフォローさせていただいています。司法試験の趣旨・ヒアリングは一通り目を通したつもりでしたが、自分が選択しない選択科目は読んでいなかったので、大変参考になりました。やはり、どの科目の試験委員も同じ事を言っているなと感じました。

 そこに気付けば、合格は近いような気がします。

 司法試験で求められているのは、正確な基礎知識と論理力(論理的表現力を含む)です。

 各科目の基本的な部分について、正確な知識 (「正確な」という点がポイントです)は、必要です。司法試験短答式試験の過去問20年くらいは問題を覚えてしまうほど、やり込むべきです。結局は、基礎的な知識を、手を変え品を変え、聞いているだけに過ぎないことがよく分かると思います。

 特に新司法試験の短答式試験は、素直になってきているようなので、正確な基礎知識は時間短縮の面でも大きな武器になるはずです。

 よく、旧司法試験短答式試験は難問・奇問であったかのようにいわれますが、聞かれている知識自体は基礎的なものです。それに事務処理能力を試す部分が加わっていただけです。

 合格が難しかったのは、受験回数制限がなく、ベテランが多く溜まっていただけの話です。そこでも正確な基礎知識を持った人は合格出来ていました。

 また、知識を覚える教育を非難する方もいますが、最低限の知識は覚えておかないと、応用も利きませんし、法律相談にすら対応できません。

 前例が大事な判例法の国(アメリカ等)であれば、前例を調査することの方が大事かもしれませんが、日本では前例よりもまず成文法があるのですから、その法律に関する基礎知識は不可欠です。したがって、ある程度の知識は当然必要になります。

 受験生の皆さんは、まず、正確な基礎知識を身につけているかを確認し、その後は、論理的な文章を書く練習をされることが合格への一番の近道だろうと考えます。

筆が滑ってしまいました。~お詫び

 まずは、昨日のブログ記事の訂正を。

 昨日のブログ記事で、ある人の旧司法試験合格時年齢を26歳と記載しましたが、正確には25歳だったので、訂正致します。

  また、点数については、schulzeさんのブログで、説明されているとおりであり、私の得点率だけの分析は正確ではなかったようです(下記リンク参照)。

http://blog.livedoor.jp/schulze/archives/51937485.html

 更に言えば、読み返してみて、あまりにひどい予備試験ルートの扱いに熱くなってしまい、昨日のブログについて、ちょっと筆が滑ってしまっていることは反省すべき点だと思います。

 ただ、それであっても、新司法試験受験の資格を与えるために法科大学院卒業レベルの素養を確認する予備試験であるはずが、「①かなり早く旧司法試験に合格し、15年以上弁護士業をやっておられ、②アメリカに留学のうえ複数の州で弁護士資格を取得し、③法科大学院でも教鞭をとっている方」が、受験しても論文式試験で合格者の上位40%前後の順位でしかなかったということは、予備試験ルートが本来の目的を失って、故意にそのルートが狭められていることの一徴表といえることは間違いないと思われます。 

つまり、私としては、予備試験の採点に関して、故意に低く採点しているというべきではなく、

「予備試験制度が新司法試験を受けても良いだけの基礎的素養があるか、つまり法科大学院卒業生レベルの素養が身についているか、を確認することを目的とする資格試験」

でありながら、合格レベルをその目的に照らして異常なまでに高く設定しすぎではないか、という批判を行うべきであった、と思う次第です。

その方は、このようにも仰っていました。

なるほど、と思える御意見だったので、引用させて頂きます。

 予備試験をしっかりと制度として残しつつ、かつ、法科大学院が存続している現状でその合格者を絞り込むという法務省のやり方 は、政治権力を掌握しようとする官僚のやり方として非常にクレバーだと思います。何しろ、合格者を一気に増やせばそれだけで法科大学院制度をぶっ壊す破壊力をもった制度を、ずっと握り続けることができるのですから。