裁判は事実を明らかにするとは限らない

 今回の都知事選の結果、石丸伸二候補の得票数の多さに驚いたのか、メディアでは石丸バッシングが開始されているように、私には見える。

 その中には、市長時代の裁判でも負けているのに、とか、裁判で負けても最高裁まで争っている、等という批判も見受けられるようだ。

 上記のような批判をする方は、裁判は事実を明らかにしているはずだ、それに反する主張を石丸氏が続けて、最高裁まで争うのは問題がある、という前提に立っているのではないか、と私には感じられる部分がある。

 しかし、裁判は事実を明らかにするとは限らないのである。

 例えば、民事裁判において、
 原告が「事実はAだ。だから被告は損害賠償すべきだ。」と主張して訴えを起こし、
 訴えられた被告が「事実はAではなくBだ。だから損害賠償する必要がない。」と反論した場合を例にして、極めて簡単に考えて見る。

 この場合、裁判官が事実を映し出す魔法の鏡でも持っているなら話は簡単だ。
 魔法の鏡を見れば、事実がAだったのか、Bだったのかがはっきりするので、そのはっきりとした過去の事実に対して法律を適用して判決すれば足りるからだ。

 しかし、現実には、そんな魔法の鏡は存在しないし、時間を巻き戻して観察することもできない。
 もちろん、裁判官がなんの根拠もなく適当に、良く分かりませんが事実はこっちにしましょう、と勝手に判断されたら当事者としては、たまったものではない。

 そこで、原告に対しては「原告が事実をAだと主張するのであればそれを証明する証拠を出して下さい。」、被告に対しては「被告が事実をBだと主張するのであればそれを証明する証拠を出して下さい。」として、それぞれ証拠を出させて判断するしかないのである。

 仮に、原告がa b c d、被告がe f g hの証拠を提出した場合には、裁判所としては、それらの証拠のなかで信頼出来ると思われる証拠を選別し、信頼出来る証拠からみれば、「原告と被告との争いに関しては、こういう事実があった」と判断するのである。

 より簡単に言えば、「信頼出来る証拠をレゴのブロックのように考えて、そのブロックを組み合わせて、どういう事実があったのかを判断(構築)する」のだ。

 つまり、(本当の事実は分からないのだが)提出された証拠等から、「この裁判では、こういう事実があったことにする」、と判断し(この結果を「認定事実」という。)、この認定事実に法律を適用して結論(判決)を出すのである。

 だから、何らかの事情で事実がBであることを証明する証拠が不足し、事実がAであったような証拠の方が多い場合は、本当の事実がBであっても、裁判所はAという事実があったものと認定して、それを前提に判決してしまう場合も当然ありうるのだ。

 そしてこれが、人間が行う裁判の限界なのである。

 裁判に負けたから、虚偽の事実を主張していたとは限らないのである。

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