一つ例え話をする。
あなたが費用を出して、農家の方に、稲の栽培を依頼すると仮定する。
a 種もみを一面、田んぼに撒いて、芽を出すか分からない全ての種もみに対して手間とお金をかけて育てさせる、
b 種もみを苗代に播いて、芽を出してきた中から生育の良い稲を選んで、その稲を田んぼに植えて、手間とお金をかけて育てさせる、
どちらが効率的だろうか。
こんな簡単な問題、馬鹿にするな、とお考えかもしれない。
まあ、おそらく99%以上の方は、bの方が効率的だと考えるだろう。
aのように、全ての種もみに手間とお金をかけて育てようとすることは当然費用は高くつく。発芽しなかった種もみにかけた手間とお金は、完全に無駄になるうえ、発芽してきた稲に対してもbと同様の手間と費用がかかるからだ。
したがって、bのように、自ら発芽し、より成長する能力を見せた稲を選抜して、その稲に手間とお金をかけた方が、より効率的に優れた稲を育てることが可能と考えられるはずである。
ところが、これを法曹養成制度に当てはめて考えると、次のようになる。
① 法律実務家として十分な法的能力を身に付けられるかどうか全く未知数の学生に対して、税金を投じた法科大学院に入学させて教育を施し司法試験合格を目指す。さらに合格後に短い司法修習を行う。
② 司法試験を実施し、法律実務家として耐えうる法的能力を身に付けたことをはっきり示した合格者を、司法修習制度で税金をかけてじっくり丁寧に育てる。
かなり図式化しているが、①は現状の法科大学院制度であり、②は、旧司法試験制度と考えていい。
日本のように限られた財政のもとで、優秀な法律家を効率的に養成しようと思えば、法科大学院に税金を投入する①の方法よりも、司法試験合格者に税金を投入する②の方策の方がはるかに有効且つ妥当であろう。
この点、法科大学院推進者からは、「法曹養成にはプロセスによる教育が必要不可欠であり、法科大学院はそのプロセスなのだ」との反論がくるだろうから、一言述べる。
〔続く〕