電車一本遅れた理由

S弁護士は、朝の通勤電車に乗ろうとしていた。
始発駅なので、淀屋橋行き特急がホームに止まってドアを開けている。
いつも乗る特急より一本早く行けそうだ。

京阪特急2扉車は、進行方向に向かって2+2のロマンスシートである。
このシートは背もたれの位置を倒すことにより、常に進行方向に向かって座れるよう工夫されている。
通路側に座ると窓側の人が途中の駅で降りる場合に面倒なので、終点まで乗るS弁護士としては、できれば窓側に座りたいところである。

S弁護士が急ぎ足で特急に乗ると、前方に窓際が空いている席が見えた。
ラッキーだ。
さらに急ぎ足で、その席に向かう。
幸い誰も座っておらず、窓側の席が確保できそうだ。

しかし、その席には妙な違和感があった。
シートが進行方向の反対側に倒れきらず、途中で止まっているようだった。
後ろの席の男性が足下に大きな荷物を置いていたので、倒れないのかと思ったS弁護士は、「すみません。もう少し倒しますね。」と伝え、男性が頷くのを確認の上、シートを倒そうとした。

「ガッ」という音がしたが、やはりシートは完全には倒れない。
シートは何かに引っかかって倒れないことが分かった。
通路側の席と肘掛けの間の下の方に、何かが見える。
携帯ストラップのようなヒモだ。

携帯電話を落としてんのか?そそっかしい奴だな。
「ったく、こっちは迷惑なんだけどなぁ~」と心の中でぼやきながら、さらに引っ張る。
しかし何かに引っかかっているようで、出てこない。

ええぃ!まったくなんてこった!!
心のぼやきはさらに大きくなる。
仕方が無いので、指を突っ込んで引っ張り出そうとする。
ツッ!
何かにぶつかって、右手の人差し指に逆むけができてしまった。
あ~~~~、も~~~!!
心の中では、落とし物をこんなところに残した、そそっかしい前客に恨み節満開である。

しかし座るためには、背もたれをきちんとしなければならない。
だから放置するわけにもいかない。
痛む指を庇いながらなんとか引っ張り出す。
出てきたのは、ケース入りのICOCA定期券だった。

そのまま淀屋橋駅まで乗って行き、そこで忘れ物として届けることも考えられた。
誰かに勝手に使われるよりも、落とし物として届けてもらえば、それだけでもラッキーと違うんかなぁ・・・と一瞬思った。

しかしこういうときに限って、S弁護士の脳裏には定期を落として困っている人の姿が浮かぶのである。
自分が定期券を落としたらホント絶望的な気分で一日を過ごすことになるはずだ。

くっそ~、この駅の駅員さんに渡さないと。
S弁護士は、座席にショルダーバッグを置いて確保し、ケース入りのICOCA定期券を片手に、ホームに走り出て駅員さんを探す。

あっちゃ~、なんてこった、
いつもは、どこかにいる駅員さんが、こういう大事な時だけ、どこにも見当たらない。

「2番線淀屋橋行き特急、まもなく発車です」とのアナウンスが流れ、特急が発車する音楽が流れはじめた。


え~~~い、こんちきしょう!!
電車一本くれてやらぁ!!!

S弁護士は、特急に飛び乗り、座席をキープしておいた荷物をひっつかんでドアから飛び降りた。そのまま駅の有人窓口に早足で向かう。
まもなく、ドアは閉まり、特急は淀屋橋に向かって、S弁護士を乗せないまま発車していった。

有人窓口で、今出ていった特急の5号車に落ちてました、とだけ伝えてケース入りのICOCA定期券を渡し、振り返らずにその足で次発の特急に急いだ。

背中から聞こえる、駅員さんの「有り難うございます」との声が聞き取りにくかった。
S弁護士は、そこでようやく、ずっとイヤホンで音楽を聴いていたことを想いだした。

ホームへの階段を下りている際、音楽の合間に、定期の持ち主と思われる人を呼び出しているような場内アナウンスが聞こえた気がした。

S弁護士は次発の特急でなんとか席を確保し、少し読書した後は、淀屋橋まで爆睡したのだった。

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