日弁連は、もう、法科大学院とつるむな

 日弁連が今年12月1日に、司法試験に関するシンポジウムを開くそうだ。
 その宣伝文句は以下のとおり。(下線は筆者が加筆したものです。)

「日本弁護士連合会では、新司法試験の開始以来、毎年、司法試験の出題内容から運営方法まで、その時々の重要課題を取り上げて「司法試験シンポジウム」を実施しています。
昨年度のシンポジウムでは司法試験合格後2~3年程度のモニターに司法試験論文問題を解いてもらい、司法試験の出題について法科大学院での学修の成果を確認するという以上の負担を課している面がないか、問題意識をもって分析と討議を行いました。本年度はその延長線上に立って、以下について取り上げます。
法科大学院では、特に法律基本科目については期末試験を課して学修の成果を図り、成績評価を行うことになっています。学修進度により出題形式や分量、内容は異なると思われますが、本年度は、法律基本科目の学修が基礎力・応用力を含めてひと通り終了する時期である2年次の時点での学修成果を図る目的の期末試験においてはどのような出題形式、分量、内容となっているのかを分析するとともに、本年度司法試験の出題形式、分量、内容についてもあわせて分析します。
その上で、2年次の成績評価とその後の司法試験の合否との間の相関も分析することを通じて、法科大学院での学修の成果を図るという本来の趣旨に近い司法試験にするには、法律基本科目の学修が終了した時点での法科大学院の学修成果に何を、あるいはどのような内容を加味することが必要なのか、あるいは必要ないのか等、より踏み込んだ検討を行うことも含めて、標記シンポジウムを開催いたします。
奮ってご参加ください。」

 この宣伝文句を見れば、「司法試験(新司法試験)は、法科大学院の学習の成果を確認する試験である(べきだ)」というスタンスで、日弁連はシンポジウムを開催することはすぐに分かる。

 しかし、司法試験法は1条1項で次のように記載してある。
「司法試験は、裁判官、検察官又は弁護士となろうとする者に必要な学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする国家試験とする」
 つまり、法科大学院の学習の成果を確認する試験ではないのだ。
 確かに、同法4項には、司法試験は法科大学院の教育との有機的連携の下におこなうものとされているが、そうであっても、法曹になろうとする者に必要な学識と応用能力があるかを判定する試験であることに変わりはない。決して法科大学院の学習の成果を単に確認するだけで足りる試験ではないのである。

 司法試験合格率を一向に向上させることが出来ないばかりか、近時に至っては志願者を実質数千人にまで減少させてしまった法科大学院が、そもそも司法制度改革審議会の青写真では、「新司法試験は、法科大学院の教育内容を踏まえたものとし、」「新司法試験と法科大学院での教育内容との関連を確保するため、」とあるではないかという点だけを指摘して、(よりよい法曹育成のためではなく)自らの存続のために、司法試験合格者を増やすように主張し続けているように見える。

 この法科大学院の主張を端的に言えば、法科大学院の教育成果を確認するというレベルまで、司法試験の合格レベルをひき下げろ(合格者を増やせ)、という主張である。合格者が出せなければ法科大学院志願者はさらに減少し、経営が行き詰まるからだろう。既に半数以上の法科大学院が閉鎖されている現状から見ても、法科大学院経営維持のためのなりふり構わぬ主張と見るのが素直だ。

本題から少し外れますが、成仏理論のパロディで。

(新成仏理論)
問題の捉え方がそもそも間違っている。食べていけるかどうかをLSが考えるというのが間違っているのである。何のためにLSを設立したのか。私の知らない大学教授が言ったことがある。世の中の人々のお役に立つ仕事をしている限り、世の中の人々の方が自分達を飢えさせることをしない、と。人々のお役に立つ仕事をしていれば、LSも飢え死にすることはないであろう。飢え死にさえしなければ、LS、まずはそれでよいのではないか。その上に、人々から感謝されることがあるのであれば、LS、喜んで成仏できるというものであろう。

人々のお役に立っていれば、世の中の人々が法科大学院を飢えさせることをしないんじゃないのだろうか・・・?

 閑話休題。本題に戻ります。

 そもそも、司法制度改革審議会の意見書自体が、法曹需要の飛躍的増大という絵空事が生じるという予測をもとにした、スタート地点からズッコケた視点で出来上がっていた意見書であって、未だにそれを墨守することは現実を見る能力がない、と言わざるを得ない。

 仮にそれを措いたとして、司法制度改革審議会意見書を見るならば、確かに新司法試験について「法科大学院の教育内容を踏まえたものとし、」との記載がなされてはいる。
 しかし、同意見書はその前提として「法科大学院において充実した教育が行われ、かつ厳格な成績評価や修了認定が行われることを前提として、」という記載を置いているのだ。

 だとすれば法科大学院が、司法制度改革審議会意見書を振り回して司法試験を自分達の教育内容を踏まえたものとするよう求めるのであれば、その前提として、まず、自分達が充実した教育を行い、かつ厳格な成績評価や修了認定を行っていることを示すべきだろう。

 この点、司法試験法5条では、「予備試験は法科大学院卒業者と同等の学識及び応用能力並びに法律の実務に関する基礎的素養を有するかどうかを判定する試験」とされているから、予備試験合格者と法科大学院卒業者は全体として同等の能力を有しているはずであって、司法試験においてもほぼ同程度の合格率でないとおかしい。
 ところが実際には、予備試験組の司法試験合格率77.6%に比べ、法科大学院組の司法試験合格率は24.7%と著しく悪い。これは、予備試験合格者を決定する予備試験考査委員が、法科大学院ではこの程度のことは身に付けているはずだと想定しているレベルよりも、遥かに低いレベルの能力しか法科大学院では身に付けることができていない、という事実を意味していることになろう。

 また、このような司法試験合格率しか取れないということは、(一部優秀な法科大学院の存在は否定しないが)法科大学院は全体として、充実した教育が行われ、かつ厳格な成績評価や修了認定が行われている、とは到底いえないだろう。
 そればかりではない。近時の採点実感では、「条文の引用が不正確又は誤っている答案が多く見られた。」「基本さえできていない答案が少なからず見られた。」「法律的な文章という以前に,日本語の論述能力が劣っている答案も相当数見られた。」などと、レベル低下を憂う採点委員の感想が目白押しだ。

 このような状況にありながら、法科大学院側は、簡単に言えば、自分達が卒業させた生徒達はきちんと法曹としての素養が身についているはずだから、基本的には合格させろ、と要求していることになる。

 私に言わせれば、自らの教育能力のなさを棚に上げた、恥知らずな、極めてド厚かましい要求としかいいようがない。
 さらに言わせてもらえば、司法制度改革審議会意見書には、法科大学院について
•多様性の拡大を図るため、法学部以外の学部の出身者や社会人等を一定割合以上入学させるべきである。
•地域を考慮した全国的な適正配置に配慮すべきである。
•夜間大学院や通信制大学院を整備すべきである。
とあるが、いまや、全然守られていないんじゃないのか。

 それどころか、理念としていたはずのプロセスによる教育もかなぐり捨てて、法科大学院在学中に司法試験を受験できるよう求める等、もはや、国民の皆様のためによりよき法曹を生み出そうとすることよりも、自分達の延命だけを狙ったとしか思えない主張もされている。

 法科大学院には多くの税金が投入されている。それは国民の皆様にとって有益な、よい法曹を生み出すという約束があったからではないのか。制度を自分達に有利に変更させ、国民の血税を自分達の延命のために利用しようとするのなら、法科大学院は無用の長物どころか、その存在はもはや有害ですらある。

 どうしてそのような、ド厚かましい法科大学院側に日弁連が尻尾を振って協力する必要があるのか。

 失敗には誰にでもあるが、失敗を失敗と認められずに現状を維持し続けることはさらに傷を大きくすることであって、賢い選択ではない。

 いくら導入に賛同してしまったからとはいえ、日弁連も、早く目を覚まして欲しいと思ったりするのである。

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