死刑存廃論について弁護士会は踏み込むべきなのか?

死刑制度の存廃に関する主な論拠については、法務省がまとめた資料がある。
www.moj.go.jp/content/000053167.pdf

それによれば、

死刑廃止論の論拠としては
① 死刑は野蛮であり残酷であるから廃止すべきである。
② 死刑の廃止は国際的潮流であり、日本においても死刑を廃止すべきである。
③ 死刑は憲法36条が絶対的に禁止している「残虐な刑罰」に該当する。
④ 死刑は一度執行すれば取り返しがつかないから、裁判に誤判の可能性がある以上、死刑は廃止すべきである。
⑤ 死刑に犯罪を抑止する効果があるか否かは疑わしい。
⑥ 犯人には、被害者・遺族に被害弁償をさせ、生涯、罪を償わせるべきである。
⑦ どんな凶悪犯であっても更正の可能性はある。

とされている。

これに対し死刑存置論の立場の論拠としては
① 人を殺したものは、自らの生命をもって罪を償うべきである。
② 一定の極悪非道な犯人に対しては死刑を科すべきであるとするのが、国民の一般的な法的確信である。
③ 最高裁判所の判例上(最判昭和23年3月12日)、死刑は憲法にも適合する刑罰である。
④ 誤判が許されないことは、死刑以外の刑罰についても同様である。
⑤ 死刑制度の威嚇力は犯罪抑止に効果がある。
⑥ 被害者・遺族の心情からすれば死刑制度は必要である。
⑦ 凶悪な犯罪者による再犯を防止するために死刑が必要である。

とされている。

 私はどちらもそれなりに根拠があるように感じている。

 たとえ残虐な犯罪を犯し死刑判決を受けた者でも、真に悔悟し被害者へ可能な限りの慰謝の措置を行い、自らの罪の重さを自らの十字架として受け止め、従容として執行に向かう者に対しては、死刑が廃止されていれば・・・とおそらく考えるだろう。
 しかし一方、自分の愛する家族を冷酷に殺害された場合であれば、犯人を何度死刑にしても私の気持ちは収まらないようにも思う。

 敢えて死刑廃止論に存置論側から私見を交えて反論するなら、こうなるかもしれない。

① ある刑罰が残酷かどうかは時代や国民感情によっても異なる。被害者が死刑以上に野蛮で残酷な方法で殺害されている場合、野蛮で残酷な行為を行っているにも関わらず、何故加害者の生命だけは国家が保証するのか。本来守られるべき生命は何ら落ち度のない被害者のはずであり、それを国家が守れなかった場面で、さらにこの善良な人々の生命を奪った犯罪者の生命だけは国家が保証する、というのは、真の正義といえるのか。凶悪犯が猟銃を無差別に乱射している際に、その凶悪犯を特殊部隊が射殺する行為も死刑と同じく国による殺人であるが、新たな被害を防ぐという意味で正当防衛か緊急避難的に凶悪犯を射殺する行為を適法であると認めながら、射殺されずに逮捕された凶悪犯だけが刑罰手続きに載せられた途端、死刑は国家による殺人だから野蛮だとして生命を保証されることに、矛盾はないのか(ふと思いついた私見です~間違ってたらスミマセン)。

② 刑罰制度は国民主権のもと定められるものであり、その国の文化の程度、国民の意識等が異なれば、国によって刑罰制度も当然異なるはずであって、国際的潮流が死刑廃止だから日本も死刑廃止を行うべきと主張するのは、他への盲従ではないのか。日本国民の一般的な法確信が、一定の極悪非道な犯人に対して死刑を科すべきであるとする考えであるならば、これを無視することは相当ではない。

③ 最判昭和23年3月12日は、「死刑は、・・・まさに窮極の刑罰であり、また冷厳な刑罰ではあるが、刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条(憲法36条)にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。」と判示している。

④ 誤判があった場合に回復し得ない損害を与えることは、程度の差こそあれ他の刑罰でも生じるものであり、死刑に限るものではない。また、現在の裁判制度のもとでは誤判は希有ともいうべきであって、そのような極めて例外的な場合を普遍化してことを論ずることは相当ではない。誤判の余地が全くない事件も相当あることを看過すべきではない。

⑤ 確かに死刑廃止の前後で凶悪犯の発生率が変わらないという主張もあるようだが、もともと死刑廃止論や死刑廃止は、比較的治安が安定している国や時期において主張され、実現されるものであるため、凶悪犯発生率の変化では死刑に犯罪抑止効果がないとまではいいきれない。

⑥ 被害弁償といっても金銭や謝罪では、どうしても慰謝されない部分が遺族側に残ることを、どう考えるのか。遺族の応報感情(簡単にいえば、犯人に悪事の報いを受けさせたいという感情)を沈静化させることも刑罰の目的に含まれるのではないか。刑罰制度が社会内で有効に機能するためには、刑罰は国民の規範意識に裏付けされていなくてはならず、国民が納得するためには罪刑の均衡も必要なのではないか。

⑦ 更正を誰が判断できるのか。死刑を廃止した後、何らかの理由で釈放された犯人が再度犯行に及んだ場合、犯人を死刑にしておけば助かった可能性のある被害者の生命をあまりにも軽視するものではないのか。

  このように、死刑存廃論双方に相応の論拠があるが、水掛け論になっている部分もあるように見受けられる。
  しかし、それでも敢えて死刑廃止を論じるのであればおそらく、団藤重光・元最高裁判事が主張するように、④の誤判の際に取り返しがつかないということが最大の論拠になるのではないだろうか。
  取り返しがつかない被害を無実の人に与えるのは、全ての誤判において等しいが、死刑とその他の刑罰では、やはりその取り返しのつかない被害の次元が違うからだ。
しかし、刑罰制度も国民主権の下では国民の意思に反して行われるべきではない。国民の法的確信が誤判のおそれから死刑廃止もやむなしと認容するようになれば、死刑廃止も実現されるべきということになるように思う。

ただ正直申しあげれば、私としては、未だ、死刑は廃止すべし、死刑廃止やむなし、と自信を持って言えるだけの確信を私の内部に持てずにいる。


確かに日弁連や弁護士会が、人権擁護の観点から死刑廃止の旗振りをすることにも一理あるとは思う。しかし、一方、私のように死刑を廃止すべきとまで自信を持って断言できない会員も相当数あると思う。
おそらく、死刑の存廃問題は、その人の、人生観や価値観、場合によってはその人の哲学まで踏み込んだ決断を迫られる問題なのだと思われる。


そうだとすれば、多数決で日弁連や弁護士会の意見として死刑廃止を求める宣言を行うことは、果たして良いことなのかという疑問を私は禁じ得ないのだ。

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