親の小言と茄子の花

 よく、「親の小言と茄子の花は千に一つも仇がない。」と言われますが、私の両親も小言が多いという自覚があったのか、何度か言い訳のように、私にそう言っていた記憶があります。
 親の小言は、子供への愛情から出た、子供のことを思ってのものだから、親の言うことを聞いておけと言うくらいの意味だと思います。

 まあ、私の両親の場合は「万に一つも無駄がない」と10倍誇張して私に言っておりましたが・・・(笑)。

 私は、小学校から帰るなり、ランドセルを放り出して釣り竿をもって海に出かけたりしていましたから、かなり両親から小言を言われて育った記憶があります。小中学生の頃によく親から言われたのは、「いま、努力しておいたら(しっかり勉強しておいたら)あとで楽になるから」という言葉でした。
 
 
 その言葉は、残念ながら、一部誤りだったのではないか、と今は思っています。

 勉強などの努力を重ねて大学に進学しても、そこでは更に勉強が待っています。私のように司法試験に合格してもそれで勉強は終わりではありません。新たな法律の制定や、最高裁判例の出現、進歩する法律解釈等について行かなくてはなりませんから、ずっと勉強なのです。会社員になられても地位に応じて更なる勉強が必要でしょうから、同じ状況だと思います。
 結局どこまで勉強してもその先があり、先に進むほど専門的で難しい勉強が必要となりますから、「あとで楽になる」等というお気楽な休憩所は、結局は存在しないのではないか、と思っています。

 勉強なんてものは、頂上の見えない山を登るようなもので、おそらく終わりなどありませんし、楽な下り坂もありません。頂上を極めたと思った瞬間、そのさらに先が見えたりするものではないかと思います。

 そうすると、私の両親の小言は、そもそも勉強を重ねても到達できない、楽な境地が勉強の先にあるかのように述べた点では、誤りだったということになりそうです。

 しかし、そうであっても、勉強や努力はつらいことだけではありません。勉強や努力を重ねることにより、自分に力がつけば、より高度で大きな仕事ができるようになるなど、普通の生活をしていればなかなか目にすることができない場所からの景色を見ることを可能にする場合もあるように思います。

 私も、中学校で講演する際などには、「先生とか、ご両親は、『いま勉強しておけばあとで楽になる』というかもしれません。でもそれは、私は間違っていると思っています。私の経験からすれば、勉強すればもっと勉強する必要が出てきたりもします。」と正直にお話しします。

 ただ、こういうお話しをすると中学生は素直ですから、「なーんだ、努力してもしんどいだけか。だったら勉強しなくても良いよね~。」という顔になります。
 
 無限の可能性を持つ中学生を前にして、講演者としては、そこで終わらせるわけにはいきません。

 ですから、私は続けて「でも努力を重ねて自分に力をつけて行けば、いままで見えなかったことが見えてくることもあるし、これまで、できなかったことが出来るようになったりします。自分の力で自分の世界を広げることができるのです。自分の知らなかった世界を冒険できるようになるのです。ドラクエとかでも冒険は楽しいよね。狭い世界よりも広い世界を冒険できる方がきっと楽しい。だから、これはとても素晴らしいことですから、是非努力してみて下さいね。」とお話ししています。

 私が中学・高校時代にやっていた勉強法もお伝えして、参考にしてもらいます。

 確かに「いま努力すればあとで楽になる」という私の両親の小言は、一部誤っていたように思います。しかし、私に勉強させることで、私の世界を広げる可能性につなげてくれたという点では、大いに意味があったように思います。

 やはり、親の小言は全体的に見れば、茄子の花と同じく、無駄ではなかったのかもしれませんね。

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