パナマ文書についてボンヤリと思うことなど

 租税回避に関するパナマ文書で、富裕層が戦々恐々としているとの報道があるようだが、仮に租税回避が合法で正しいことなら、堂々としていればいいように思う。慌てふためいているということは後ろめたいことがあるからとしか思えない。

 仮に、日本での売上げや日本の工場での生産等で富を築いたのであるなら、それには日本の社会の安定度や治安の良さも多いに貢献しているはずだ。その社会の安定や治安の良さは国民の税金の負担で賄われている面が大きい。

 そうだとすると、租税回避者は、日本の納税者の負担によって維持されている環境を利用して富を得ながら、自らの懐に多く富が残る租税回避地を利用する形を取っていることになりそうだ。

 詳しく勉強したわけではないので素朴な考えしかできないが、日本の納税者の負担により得られる環境を利用するだけ利用して富を得ながら、日本社会に税金として還元せずに、自らの租税回避をしようというのだから、租税回避者の行動は私の目には、かなり身勝手に写る。

 そもそも、競争至上主義の新自由主義とトリクルダウン理論(簡単にいえば、お金持ちをもっとお金持ちにすれば、どんどんお金を使ってくれるので庶民の方にもしずくが落ちてきて、庶民にもお金が回るという理論~仮説)で、社会が豊かになると竹中平蔵は言っていたような気もするが、結局は経済格差を拡大するだけの結果に終わっている。
 富裕層は、以前よりも更にリッチになったが、その分社会にお金を使ってくれるのではなく、自らをさらに富裕にするため溜め込む方向に向かった。その端的な表れが租税回避なのではないか。
 結局、富裕層を更に富裕にしても、富裕層は自分のことしか考えなかったということなのだろう。

 富裕層だけでは世界は回らない。社会も維持できない。当たり前のことだ。しかし、新自由主義の信奉者や租税回避に走る富裕層にはその当たり前のことが、どこか抜け落ちているような気がしてならない。

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