司法試験委員が法科大学院に求めるもの~公法系2

今回は、公法系第2問を取り上げる。

(引用開始)

5 今後の法科大学院教育に求めるもの
基本的な判例や概念等を正確に理解する訓練を重ねることはもちろんであるが,こうした訓練によって得られる基礎的な知識・理解と,具体的な事実関係を前提とした,事案分析能力,法の解釈・適用能力,文書作成能力等との結び付きを意識して習得させるという視点に立った教育を求めたい。
多くの答案からは,本問で論ずべき主な論点の内容自体について基本的な知識・理解を有していることがうかがわれ,この点,法科大学院教育の成果を認めることができた。しかしながら,各設問における具体的な論述内容を見ると,問題文等の指示から離れて一般論・抽象論の展開に終始している答案や,会議録から抜き書きした事実関係と一般論とを単純に組み合わせただけで直ちに結論を導くような,問題意識の乏しい答案が,相変わらず数多く見られた。
また,本年度においては,行政法における基本的な概念の理解が不十分であると思われる答案も少なからず見られたが,これは,概念自体を学習していないというよりは,具体的な状況でこれらの概念をどのように用いるのかといった視点での学習が不十分であることに起因するように思われた。
法律実務家に求められるのは,法律解釈による規範の定立と,丁寧な事実の拾い出しによる当てはめを通じた,具体的事案の分析・解決の能力であり,こうした能力は,理論・法令・事実を適切に結び付ける基本的な作業を,普段から意識的に積み重ねることによって習得されるものである。法科大学院には,判例等具体的な事案の検討を通じて,基礎的な知識・理解を確認する学習機会を増やすなど,こうした実務的能力の習得につながる教育を求めたい。

(引用ここまで)

<超訳>~司法試験委員が言いたいんだろうなと思うことを推測しての私の意訳

法科大学院に言いたいねん。

 応用なんていらんねん。基本的な判例や、概念について正確に理解させてほしいねん。それが出発点やねんから。でもそれだけじゃ足りへん。基礎的な知識と理解が学生に身についたっちゅう仮定の上で話すけど、具体的事実を前提として、事案の分析、法の解釈・適用能力、文書作成能力、要するに法律家として最低限必要なことやわな、これらとの結びつきをよう考えさせて、指導してほしいんや。簡単に言うたら、基礎的な知識と理解だけできてもあかんねん。

 ぎょうさん答案見てみたら、この問題で論ずるべき論点の内容自体には、基本的な知識と理解があるようには「窺うこと」はできるかな。でも知識と理解が身についとるとまでは、よう断言できひん。けどまあ、そこんとこは、敢えて言うたら法科大学院教育の成果と言えるかもしれへんな(旧司法試験でもできてたことやけどそれは言わんといたる)。

 せやけど、よう答案読んでみたら、凄いで。問題文の指示を無視して、一般論・抽象論ばーかり書いとる答案、問題文から抜き書きした事実関係と一般論だけ書いて全~く問題の個別的な特性(真の問題点やわな)を無視して結論づけとる答案、こんなふうに問題文の個別的な問題点をほとんど分析できてへんような答案ばっかしや。今年だけとちがうで、だいぶ前から言うてきたと思うけど、相変わらずできてへん。

 ちょっとと違うで、数多くの答案でそうなんや。これはエライことと違うか。

 それから、今年の試験みたら、行政法における基本的概念の理解が不十分な答案も結構あったんや。応用ちゃうで、基本的な、誰でも知っとらなあかん、ほんま基礎の概念の理解やで。まあ、ええように言うたると、概念自体を勉強しとらんちゅうより、具体的な状況でどうやって概念使うたらええのか分かっとらんのかもしれんけど、どう使うたらええのか分からんのやったら、結局使いモンにならんから、そもそも概念の理解ができとるとは言えんわな。「はさみ」つーたらどないな形をしとるもんかを知っとっても、使い方分からんかったらよう使わんわな。それやったら、「はさみ」を理解したとは言えんやろ。

 法律実務家には、法律解釈による規範定立、丁寧な事実の拾い出しによるあてはめを通じた具体的事案の分析・解決の能力が必要やねん。こんな能力は、理論・法令・事実をええように結びつける、ホンマ基本的な作業を普段から積み重ねることで身につくことやねん。悪いけど答案見てたら、法科大学院ではできとらんとしか思われへんわ。法科大学院には、判例などの具体的事案の検討をさせることなんかを通じて、基礎的な知識・理解を確認する学習機会を増やさなあかん(もう一回言うけど、基礎的な知識・理解やで、応用まで行ってないところやで。)。そうせんと、実務的能力を学生に習得させることはできへんで。

(続く)

司法試験委員が法科大学院に求めるもの~公法系1

平成26年司法試験に関して、採点実感等に関する意見が公開されている。

最近は昔に比べて法科大学院に配慮した内容の意見が増えてきてはいるが、よく見ていけば、司法試験委員会が今の法科大学院教育に決して満足していないことはよく分かる。

各論を見ていけば、もっと問題を端的に指摘している意見もあるが、今回は、司法試験委員が法科大学院に求めるものに注目してみたい。

【公法系第1問に関して】

今後の法科大学院教育に求めるもの

昨年度と同様であるが,判例及びその射程範囲が理解できていない答案が目立った。それゆえ,「法科大学院教育に求めるもの」として,昨年度と同じ指摘をしたい。
法科大学院では,実務法曹を養成するための教育がなされているわけであるが,その一つの核をなすのは判例である。学生に教えるに当たって,判例への「近づき方」が問われているように思われる。
判例の「内側」に入ろうとせずに「外在的な批判」に終始することも,他方で,判例をなぞったような解説に終始することも,適切ではないであろう。判例を尊重しつつ,「地に足を付けた」検討が必要であるように思われる。判例の正確な理解,事案との関係を踏まえた当該判例の射程範囲の確認,判例における問題点を考えさせる学習の一層の深化によって,学生の理解力と論理的思考力の養成がますます適切に行われることを願いたい。

(引用ここまで)

さすがに一流の学者・実務家が書いたものだけあって上品だ。

これを、あまり品が良くない私が、言いたいことはこうだろうな~と推察して意訳するとこうなる。

法科大学院に言いたいねん

 去年も言うたんやけど、判例そのものと、その判例がどこまで及ぶのかについてが、全然理解できてないねん。せやから、くどいようやけど、もう一回言うで、よう聞きや!
そもそもお宅ら法科大学院ちゅうところは、実務家を育ててはるんやろ、それやったら実務でめちゃくちゃ大事なことは判例や、ちゅうことくらいよう分かってんのんと違うの。学生に教えるにあたって、判例をどう思って教育しとんねん。
 受験生の答案見とったら、判例分かってへんねん。判例の中身を吟味させんと、形式論理的な批判ばーかりしてもあかん。もちろん、形式的に判例を解説しただけやってもあかん。まさかそんなんばっかりしとるんと違うわな?でもそうなんちゃうかと疑うでホンマ。判例は大事やねんから、しっかり尊重してじっくり教えてあげなあかんやろ。
 判例の正確な理解も、事案との関係も考えたその判例の及ぶ範囲も確認できてへんし、判例の問題点を考えさせるなんてできてへんわな。考えさせる学習(教育?)ができてへんわな。答案見たら分かるけど、学生の理解力も論理的思考力もたりてへんねん。ホンマしっかりやってくれることを切に願うで。

実務家にとって判例は極めて重要であるが、その肝心の判例が分かっていないという指摘は、毎年のようにいわれている。理論と実務の架橋を標榜しながら、未だに司法試験委員を満足させる結果を、法科大学院は出し得ていないようだ。

(続く)

鴨居玲展~2

 金沢に行く機会があり時間的余裕があるとき、私は石川県立美術館で、鴨居玲の作品を見ることが多い。そして、「1982年 私」の作品が持つ力に打ちのめされる。

 キャンパスを前にした自画像の周囲に、これまで鴨居玲が絵画の題材として描いてきた人物が描かれる。背景は中心から端に向かって暗くなっていく。しかし、鴨居によりかつて絵画としての生命を吹き込まれたはずの人物が、誰1人として、嬉しそうな表情を浮かべてはいない。困惑・諦観・不安・刹那的感情等の入り交じった感覚にとらわれたまま、その場に配置されている。そして中心に座る鴨居は、何も描かれていない白いキャンパスの前で絵筆を持たず呆然と座り込み、この絵を見るものに何かを問いたげに口を開けている。

 もう描けない、自分には絵を描くしかできないのに、もはやそれもできない。
 これ以上何を画くのか、何を描けば良いというのか、何が画けるというのか。
 それなのに、あなたは(神は)、何故、なお描くことを私に求めるのか。

 そのような声にならない鴨居の叫びが、ズンと響く。

 画家にとって絵を描くことは本能にも等しく、またその存在価値に直結する行為である。絵が描けないということは画家にとって自らの存在価値を否定することにもつながる。鴨居に兆した、もはや絵を描くことができないという自己否定の思いと、その自己否定の思いに抗いつつ感じていたであろう自負と、その自負を飲み込むに十分な底知れぬ恐怖と絶望。それを裏付けるかのように、展示されていた、鴨居の使用していたパレットの裏側に残された「苦るしかった」との走り書き。

 鴨居の自己否定にもつながりかねず、鴨居の心の奥底に封じ込まれ暗黒の天幕に覆われていてもおかしくないこの心的情景を、神が、あるとき、残酷にも部分的に光を当て浮かび上がらせたのかもしれない。
 そして、その情景を見てしまった鴨居が、自らの意思というよりも、画家としての本能で描ききったのがこの作品ではないか、とさえ思える。

もちろん、「1982年 私」も、この展覧会で展示されているはずだ。

東京、函館、金沢での展示が終わり、伊丹が最後の展覧会だ。

是非ご覧になることをお薦めする。

※作品に関する感想はあくまで坂野の個人的な感想であり、画家本人、解説者の方の見解と異なっている場合は当然あり得ます。

鴨居玲展~1

没後30年 鴨居玲展~踊り候え~が、現在伊丹市立美術館で開催されている。
http://artmuseum-itami.jp/exhibition/current_exhibition/10915/

 素直に、必見の展覧会だと思う。

 ただし、自分の精神状態がちょっと不安定かもしれないな、と感じる方には、お薦めはしない。鴨居玲の作品から受ける重さに耐えきれない可能性があると思うからだ。

 私は10月に金沢で、この展覧会を見た。
 土曜日で兼六園などの人出は多かったようだが、幸い、展覧会は空いていた。

 金沢は鴨居玲の生誕の地であることもあって、金沢市にある石川県立美術館には、鴨居玲の作品が多く所蔵されている。
 そのおかげもあってか、石川県立美術館では、この鴨居玲展と同時にもう一つの鴨居玲展と題して、所蔵する鴨居玲の作品を展示しており、まさに鴨居玲を堪能できる贅沢な環境だった。その一方、多くの鴨居作品に触れすぎて、随分疲労もしたようにも記憶している。

 学生の頃、わざわざバイクで広島県立美術館まで見に行った「教会」も展示されていた。「教会」を題材にしたいくつかの絵も興味深い。

 最初期の「教会」は、存在する教会を写実的に描いたもののように見える。しかし、時を経るに従い、鴨居玲の描く「教会」は、入口も出口もそして光を教会内に取り入れる窓さえも失っていく。まるで、石から切り出したかのような教会が描かれるのだ。

 誰もその中に入れず、誰もその中から出ることのできない教会。
 その中に光さえ届かない、堅い石造りの教会。

 鴨居にとってキリスト教や信仰は、このように見えたのか。

 その後、教会は、不安定に傾き、あるいは地中に埋没し、さらには空中に浮遊していく。巨大な十字架のような影を落とす作品もある。背景も陰鬱な暗度の高い色調の作品や、悲しみを感じる青で描かれた作品もある。青の背景で描かれた教会には、教会自体もその青に染まり、空間に同化しやがて消え失せる過程であるかのような作品もある。
 暗い背景の中に、忽然と佇む教会の向こうの地平に明るい光の兆しのようなものが描かれた作品もある。しかしその光は、遙か向こうにある。救いにつながるかもしれないその光には、おそらく、人の手が届くことはないのだ。

いくつかの「教会」作品を一度に眺めることができるだけでも、価値があるように思う。

(続く)

※絵に対する感想は、坂野個人の感想であり、鴨居玲本人や高名な解説者の方が全く違う意味で解説をされているかもしれません。あくまで絵画好きの素人の感想とお考え下さい。

法テラスの弁護士報酬削減案

※ツイッター等でご指摘を受けましたとおり、以下の記事は誤解を含んでおります。

 少年事件の広告に関しては、日弁連委託援助事業のようです。

 お詫び致します。

 なお、記事については後日訂正ないし削除する予定ですが、公開した以上、それまでは掲載致します。

 月間大阪弁護士会の記事によると、法テラスが法律援助事業に関する弁護士報酬の改定案を出しているようだ。改定案と聞けば聞こえは良いが、要するに弁護士報酬の削減を目的としたものだ。

 現在の改定案の項目で、援助金額の大幅な切り下げになるのは次の2項目であるとのことだ。

①家裁段階の付添人が、抗告(審判に対する不服申立。大人の事件でいえば、判決に対する控訴などと同じと考えて頂ければ分かりやすい。)を受任する場合の援助金額を7万円に減額
②抗告段階の付添人が再抗告を受任する場合の援助金額を5万円に減額

 ただでさえ、国選弁護制度、国選付添人制度は、経営者弁護士には完全な赤字案件というべき費用しか出ていないのに、法テラスは援助金額をさらに削減しようとする気のようだ。
 法テラスはどこまで、弁護士の善意に寄りかかった運営を行うのか。それとも、どんなに赤字でも仕事がないよりマシだろうから、どれだけ安くても仕事を受けるだろうと、足下を見ているのか。

 どこの世界でも、サービスに見合った対価は必要だ。それが保たれてこそサービス業が成り立っているはずだ。

 私の感覚からすれば、経営者弁護士であれば1人事務所であっても、家賃・事務員の給与・リース料等から、時給20000円以上で仕事をしなければ、赤字になる可能性が高い。費用に見合った仕事をするとなれば、経営者弁護士は少年事件抗告審には3時間半以上かけられないことになる。しかし、手抜きをしても、少年事件抗告審は3時間半で終わるような仕事ではない。仮に手抜きをして3時間半で終えられたとしても、事務所維持のための経費に1時間20000円以上かかっているので、実質上所得は0円だ。

 少年事件の抗告は、大人の刑事事件と異なり、取り敢えず控訴期間(14日)中に控訴状だけ出してあとは控訴趣意書をゆっくり作成すればいいというものではない。抗告の理由も含めて14日以内に書面を作成して提出する必要があるため時間的には極めてタイトである。しかも、家裁がどういう理由でその処分を下したかについての審判書が、大抵出来上がっておらず、出来上がって謄写できるのが抗告期間切れの3日前、という状況だってありうる世界だ。判決文を見て初めて裁判官の判断の過程が分かるのと同様、審判書が出来上がっていなければ、どの部分で審判官が何を評価してこの処分にしたのか、そのどの部分が誤っており、抗告審で正されなければならないのか明確にならないのだ。
 しかも、予め準備しておけばその書面がそのまま使えるわけではない。事案が違うから当たり前だが、一つ一つがそれぞれの弁護士が苦労して身に付けた職人技を駆使したオーダーメイドの書面なのだ。

 
 以前、知り合いの医師に、弁護士がどれだけボランティア精神で、どれだけ割に合わない仕事をしているのかについて説明したところ、帰ってきた感想は「弁護士ってそんなに余裕があるンや」というものだった。世間の見方は、おそらく同じなのではないか。
 弁護士や弁護士会が、人権のためだと理想に燃えてやせ我慢したところで、世間は理解してくれず、むしろ、それだけ余裕があるならもっとボランティアをしても良いだろうと考えても不思議ではない。だから、堂々とただでさえ赤字程度しか出さない弁護士費用を、法テラスはさらに削減すると提案してきているのではないか。

 悪いが、弁護士がストライキでもしない限り、法テラスはさらに足下を見てくる可能性が高いだろう。
 なお、法テラスは自前で弁護士を雇用して、仕事をさせてもいるから、民業圧迫きわまれり、といった状況にもある。

 私は、6~7年ほど前ある会合で、もと大阪弁護士会会長の方で、法テラス導入に尽力した方に、「法テラスは弁護士費用の立て替えをする機関であって、弁護士費用を下げるものではないはずだ。さらに自前で弁護士を雇用して事件解決にあたるとは民業圧迫ではないか。」と意見したことがあるが、お答えは「仕事が増えたんやから良かったやないか。これから仕事に見合うお金を出すように言っていけばいい。」というものだった。

 その先生がどれだけ法テラス案件をこなしていらっしゃるか知らないが、仕事に見合うお金が出てくるどころか弁護士費用切り下げとは、どこまで弁護士に負担を押しつければ気が済むのだろうか。

 このような状況下で、日弁連は法曹志願者の減少対策として、法曹の魅力を訴えていくそうだが、法曹志願者がそれで回復するのか。

どこか間違っているような気がしてならない。

プロセスはもう聞き飽きた~番外編2.2(ある弁護士の考えた法科大学院生き残り方法2)

(前回の続きです)

 K弁護士によると、法科大学院を卒業しながら司法試験に合格できなかった人は、企業から見れば、実務家養成に特化したプロセスによる教育を2~3年も受けておきながら、旧司法試験よりも10倍以上合格率が高くなり間違いなく合格しやすくなった司法試験すら合格できなかった、というマイナスのスティグマを押されている可能性があるという。
 かつて、東大・京大の卒業生が、合格率2%の旧司法試験にチャレンジして合格できなかったからといって、就職の際に東大・京大卒業生がマイナスのスティグマをおされることはなかったはずだ。それは、旧司法試験の合格率が極めて低かったから、合格できなくても当たり前という共通認識ができていたからではないのか。
 そうだとすれば、現行司法試験の合格率を極端に下げれば、法科大学院を卒業して司法試験に合格できなくても、それは試験の合格率が低すぎるせいで、法科大学院生のせいではない、合格できなくて当たり前、と企業は受け取ってくれるのではないか。そうなれば、司法試験不合格のスティグマは回避できる。

 K弁護士は概ねそのように語ってくれた。

 これに対して、確かにK弁護士のいうとおりである面はあるが、そうなると、法科大学院を卒業しても司法試験に合格できなくて当たり前となるため、わざわざ高いお金と長い時間をかけて法科大学院に通う意味が無くなり、誰も法科大学院に行かなくなるのではないか、との指摘を私はした。

 K弁護士は、それでも法科大学院の生き残るみちはあるという。

 それは、法科大学院は、実務に精通した教員(一流の実務家教員)を大幅に増員した上で、外国語を含めて本当に企業の法務に役立つ知識、企業が法務面で現実に求めている能力を、法科大学院生に叩き込み、真に即戦力たり得る人材を育成することに注力すればいい、ということだった。
 もちろんその前提として、法科大学院卒業を司法試験受験の要件としてはならない。法科大学院卒業を司法試験受験要件とする限り、その裏返しとして法科大学院は、司法試験の合格者を出さなければならない役割を負い続けることになり、司法試験のくびきから逃れられないからだ。

 そもそも、法科大学院ではプロセスによる教育によって、理論と実務の架橋もできるはずなんだから(少なくとも法科大学院はそう主張している)、当然実務に直接役立つ教育だって可能なはずだ。
 但し、真に社会で役に立つ人材を生み出そうとすれば、その教育の大部分は、理論だけを研究している学者ではなく、現実に社会で活躍している一流の実務家によってなされなければだめだ。実務を知らない者に実務の勘所、実務で役立つのはどのような知識であるかなど、わかりようもないからである。法科大学院は国民のために創られた制度であるはずで、学者の安易な就職先開拓事業であってはならない。

 そして、一流の実務家を中心に、法科大学院で実務で真に役立つ教育が本当になされ、厳格な卒業認定の下、素晴らしい人材が法科大学院から輩出されるのであれば、自然と企業からの評価は高まり、法科大学院卒業というだけでかえって高品質を保証するブランドになるはずだ。その中でさらに法曹資格を取りたいと思えばさらに勉強を重ねて司法試験に合格すればいいだけだ。
 そのようなブランドが法科大学院に構築できれば、司法試験受験資格を人質にとるとか、予備試験を制限せよなどと姑息な主張をしなくても、学生はこぞって法科大学院を目指すことになるだろう。素晴らしい教育を受けられて即戦力を身に付けられる上、法科大学院卒業自体がスティグマではなくブランドとなり、人生の成功へのパスポートになり得るからだ。

概ねこのような話をK弁護士から聞かせて頂いた。

 K弁護士の構想する法科大学院は、企業法務を念頭に置いた教育を想定しているため、果たしていわゆる人権派弁護士や企業側でなく個人の側に立ついわゆる街弁的な弁護士が育つかどうかについては若干疑問もないではない。しかし、法科大学院がなかった旧司法試験の時代でも人権派弁護士や街弁は生まれてきたし、法科大学院卒業を司法試験受験要件から外せば、法科大学院以外からの司法試験合格者も増えるだろうから、その心配も薄らぐだろう。
 そうだとすれば、社会に直接役立つための教育という観点からは、K弁護士のお話しも一理ある、と私は思った。

 ただ、残念ながら、現時点で法科大学院卒業者にブランド力があるかといえば、そのような話は聞かれない。社会に直接役立つ教育を法科大学院が行えていないということなのだろう。

 となると、問題は、K弁護士が指摘するような教育が、学者教員の方が多数を占めちゃってる法科大学院で果たして本当に可能なのか、そういうことに文科省・大学側・学者教員が納得するのか、ということなのかもしれないね。

プロセスはもう聞き飽きた~番外編2.1(ある弁護士の考えた法科大学院生き残り方法1)

 先日、会社法分野で、かなりの成功を収めている弁護士の方と食事をする機会があった。

 その先生(K弁護士とする)と食事をしながら法科大学院の話になったときに、K弁護士は、法科大学院が司法試験の合格者を増やせば人気(志願者)が回復すると主張しているのは本当なのかと、私に聞いてきた。

 私は、中教審の法科大学院協会や法科大学院制度維持・推進を主張する弁護士がそのように主張しており、さらには司法試験を簡単にしろとまで主張していることを説明した。

 K弁護士は、そんなことで法科大学院の人気が回復すると本気で信じているとしたら、そのこと自体が信じられないと言った。

 私が聞き取ったK弁護士の考えは概ね次のようなものである(間違っていたらごめんなさい)。

 そもそも法科大学院制度のように時間もお金もかかる制度に敢えて志願者が来るとすれば、それは法科大学院を出た先にある法曹資格が目当てではないか。
 「法曹資格は人気も価値もあるから、お金や時間を馬鹿みたいにかけさせる制度にしても、志願者は減少しないし、法科大学院は採算が取れる。」と大学側が判断したからこそ法科大学院を設立したのだろう(もし、当初から採算を度外視して、プロセスによる教育とやらの法曹育成の理想だけで設立されたのであれば、今のように次々撤退なんかしないだろう。)。

 簡単に言えば、法曹資格の人気・魅力にぶら下がって、大学側が商売をしようとしたわけだ。

 確かに司法試験の合格者を増やせば、法科大学院修了生の合格率は上がるから、「うちの法科大学院からこれだけ司法試験に合格した!」と宣伝しやすい面はあるだろう。しかし、少し長い目で見れば、司法試験の合格者を増やせば、全体としてのレベルは下がるし法曹資格の価値は当然下落する。昔の司法試験は合格率2%程度で、東大・京大卒でも15~16人に1人しか合格できない試験だったし、それだけの難関であればこそ、突破した際の世間の評価や自己の満足度も大きかった。志願者もほぼ一貫して増加傾向だった。

 司法試験合格者を増やしたことは、そのような資格を濫発して、法曹資格の人気・魅力・価値を失わせただけではないか。また、全体としての法曹の質を下げて、結局は国民の皆様に不利益を与える危険性を増やし、その結果、司法による解決から逆に遠ざける危険性を増やしただけなのではないか。
 
 つまり、法科大学院は法曹資格の人気・魅力にぶら下がって志願者を集めておきながら、合格者増を叫んで、その根本にある法曹資格の人気・価値・魅力の下落に直結する主張を行うのは、自家撞着ではないか。というものであった。

 そこで私が、「法科大学院側は、プロセスやらなんちゃら言ってるけど、結局は司法試験合格率によって価値を判断されると思っている部分があり、その目先のことから、司法試験合格率を上げろと言っているようなので、バカだとは思うけど、自家撞着だろうが自己矛盾だろうが構っちゃいられないんじゃないか。」と話した。

 K弁護士は、その考えもおかしいと指摘した。

 K弁護士によると、むしろ司法試験合格率を極端に下げる方が、法科大学院の生き残りにメリットが出るのではないかというのである。

(続く)

プロセスはもう聞き飽きた~番外編(司法試験問題漏洩?!)

 昨夜から今朝にかけて、法曹関係者に衝撃的なニュースが届いた。

(NHKニュースWEBより引用)

司法試験の問題内容 教え子に漏らした疑い
9月7日 21時03分

司法試験の問題内容 教え子に漏らした疑い

ことしの司法試験で、問題の作成などを担当した明治大学法科大学院の教授が、教え子だった受験生に試験問題の内容を漏らしていた疑いがあるとして、法務省が調査を行っていることが関係者への取材で分かりました。教授は関係者に対し、漏えいを認める趣旨の説明をしているということで、法務省は詳しいいきさつについて調査を進めています。

関係者によりますと、明治大学法科大学院の60代の男性教授は、ことし5月に行われた司法試験で試験問題の作成などを担当する「考査委員」を務めていましたが、試験前、教え子の20代の女性に試験問題の内容を漏らした疑いがあるということです。
漏えいした疑いがあるのは、この教授が問題の作成に関わった憲法の論文試験などの内容とみられ、法務省は教授や受験生から事情を聴くなど、調査を行っているということです。教授は関係者に対し、漏えいを認める趣旨の説明をしているということで、法務省は詳しいいきさつについて調査を進めています。
NHKが教授への取材を申し込んだのに対し、教授の家族は「本人は体調が悪いので応じられない」と話しています。
「考査委員」は法務大臣が任命する非常勤の国家公務員で、ことしは法科大学院の教授や裁判官、それに弁護士など、合わせて131人が担当しましたが、試験問題の内容などについて守秘義務が課せられています。
司法試験を巡っては平成19年、考査委員を務めた慶應大学法科大学院の教授が試験前に学生を集めて開いた勉強会で、実際の出題と関連するテーマを教えていたことが明らかになりました。これを受けて法務省は考査委員のうち、法科大学院の教授の数を大幅に減らしたほか、問題の作成に関わる考査委員については受験資格のある学生らに一切指導しないことなどを義務づけていました。
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合格率は年々低下

法科大学院は知識の詰め込みだけではなく、幅広い教養や人間性を兼ね備えた質の高い法律の専門家を養成しようと、司法制度改革の一環として設けられ、平成18年から法科大学院を修了した人などを対象にした新しい司法試験が始まりました。
当初は法科大学院の学生の7、8割が司法試験に合格することを想定していましたが、全国に70以上もの法科大学院が設立されたことで競争が激化しました。その結果、法科大学院を修了した人の合格率は、平成18年は48%でしたが、年々下がり続け去年は22.6%と過去最低となりました。
この教授が在籍していた明治大学の法科大学院も9年前の最初の合格率は、45.3%でしたが、その後下がり続け、去年は17.3%に落ち込んでいました。

(NHKニュースWEBよりの引用ここまで)

 もうお忘れかも知れないが、2007年にも慶應義塾大学の法科大学院で、試験委員が、試験前の答案練習会で試験問題と類似の論点を学生に教えていたことが発覚し、法務省が当該試験委員を解任した事件があった。司法試験の論文試験は問題数が少ないため、直前の問題練習できちんと復習していた受験生は、ほかの受験生よりも極めて有利な立場に立つことができたはずだ。
これだけでも、法科大学院の信頼を失うに十分な行為であった。
 この問題で、当該試験委員が職を失って、学会等からも追放されていたのなら話は分かるが、どうも、この司法試験委員は、後に他の法科大学院の教授に就任したらしいから、学者さんの世界は身内に甘いのか。

 そんな方々が、幅広い教養や豊かな人間性を、法科大学院でどうやって教えておられるのかとても興味がある。

 本件も事実なら、試験問題そのものを漏洩したようだから、2007年よりもはるかに悪質だ。司法試験委員の解任は当然だろうし、守秘義務違反での告発も当然だろう。

 大学の先生方は、司法試験に関して予備校を蔑視し、自分達の方が上だと思っておられるようだが、少なくとも司法試験予備校は試験対策も教えていたが、こんな、ど汚いズルはしなかったぞ。

 以前も述べたように、旧司法試験は例えてみれば、田んぼ一面にまかれた籾の中から自力で成長する可能性を見せた苗を(司法試験で)ピックアップして、(合格者に対して)大切に税金をかけて一人前に育てる方式。
 法科大学院制度は、田んぼ一面にまかれた、芽が出るかどうかも分からない籾の全てに、税金をかけてプロセスによる教育とやらを施して育てようとする方式。そして、プロセスによる教育とやらを施す農家(法科大学院)には、税金が投入され、その結果、お金をかけた籾のうち20%位しかものにならない(司法試験に合格しない)。

きつい言い方で極論すれば農家(法科大学院)にかけた税金のうち20%以外は無駄なお金と言えなくもない。

 限られた財源で優秀な法律家を育てようとするならどちらが効率的かは一目瞭然だ。しかも今回は、その農家が自分の苗を優秀に見せようとして、2度目のひどいズルをしたのだから、国民の皆様は、ただでさえ税金食いの当該農家(法科大学院)との契約は、もう打ち切るべきなんじゃないか。

 一番悪いのは、どんな対価を提供されたとしても秘密を守る義務を負っていながら、問題を漏洩した委員であることには間違いないと思う。しかし、どちらが先に申し出たのか分からないが、試験問題を教えてもらった女子学生にも問題が隠されている可能性もあるだろう。
 私など合格率2%台の旧司法試験には随分苦労させられたから、確かにズルしてでも合格したいという気持ちは理解できなくはない。
 しかし、何度も不合格にされているうちに、今のこの実力で仮に間違って合格しても、実務家になったときに依頼者の方に迷惑をかけるかも知れない、と私は思うようになった。そして、司法試験では背伸びせずに今の実力を見てもらって、「実務家の卵としての実力が足りないのなら仕方がない、でも私は良き実務家になりたい気持ちを強く持っており、合格させて頂ければ努力して必ず良き実務家になります。」という心持ちになれた年に合格できた。
 ズルしてでも合格したいという気持ちがあり、その気持ちのまま,本当にズルができて合格してしまっていたら、どうなっていただろうか。
 ズルしてでも自分の利益を考えることを正当化したまま、法曹になってしまう方が本当はもっと怖いのではないか。

 幅広い教養と豊かな人間性を育むという法科大学院のスローガンがこれほどむなしく響く日はないように思う。

プロセスはもう聞き飽きた~2

(続き)

 もちろん法科大学院協会のこの意見書にも、プロセスによる教育とはどういうもので、どうしてプロセスによる教育でなければならないのかという点については、明確にされていない。9回もその言葉を用いるにも関わらず、内容が全くもって不明確である。

 言い方は悪くなるが、まるで何とかの一つ覚えのようである。

 唯一それっぽい点があるのは次の記述である。
「・・・・司法試験に合格する能力に到達していれば足りるという発想を転換して、法科大学院における教育を経ることにより、試験では確認できない能力を涵養するというのが、教育プロセスを重視し、法科大学院制度を導入した根本理念である・・・・」

 なるほど、教育プロセスを重視した法科大学院を出れば、司法試験では確認できない何か凄い能力が身につくのか(大したことのない能力ならわざわざ多額の税金を投入する意味はないでしょ)。法科大学院協会が言っているんだから、間違いないだろう。
 じゃあその能力って何なんだ。

 それは本当に実務で必要な能力なのか。
 仮にそのような能力が存在したとして、本当にその能力を身に付けさせることができているのか。
 明確に説明できないのなら、嘘か思い込みかのいずれかではないのか。
 

 そのような能力が身についていないと思われる、予備試験合格者に対して、大手法律事務所が(司法試験に合格していない段階でも)予備試験合格者だけを対象とした就職説明会を多数開催している(つまり大手法律事務所は、法科大学院で身につくかも知れない、そのような計り知れない能力など意に介していない。)ことは、どう説明するのか。
・・・と疑問は尽きない。

 でもその前に、司法試験は「裁判官、検察官又は弁護士となろうとする者に必要な学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする国家試験」とされているぞ(司法試験法1条1項)。つまり、司法試験に落ちるということは、「法曹として必要な学識と応用能力はまだ足りないね、もう少し勉強してきてね」、という試験委員の判断だ。このように、法曹になるために最低限必要な学識と能力を判定するのが司法試験なのだ。

 仮に司法試験に合格するだけの学識と能力を身に付けても、それは法曹として最低限度必要とされる学識と能力にすぎない。

 そもそも、法科大学院は法曹を養成する目的で設置されたのだから、司法試験に合格するだけの実力を学生に身に付けさせるだけの教育を行うことは当然のことで、それができないのなら債務不履行か詐欺的商法だ。
 そして、最低限司法試験合格の実力をつけさせたうえで、初めて、(正体不明の)試験で図れない能力とやらを身に付けさせるべきだろう。なんたって、法科大学院は法曹養成が目的なんだから。どんな素晴らしい能力か知らないが、試験で図れない能力を身に付けさせるよりも、まず、法曹として必要とされる最低限度の知識と能力を身に付けさせるのが最優先のはずだ。
 法科大学院制度は、少子高齢化の中での、大学側の生き残りの手段なんかじゃないんだろ。

 司法試験に合格するだけの実力を身に付けられない法科大学院生が、仮に司法試験では計り知れない能力を法科大学院で身に付けてもらったところで、合格できないのなら、結局法曹としてその計り知れない能力を発揮できないことは当然だ。法曹として最低限の学識と応用能力があって初めて司法試験に合格できるのだし、それ以上の能力を生かす場面にたどり着けるからだ。
 普通の仕事を普通にこなせた上で、仕事に個性や能力を発揮していくならまだしも、そこまで到達できていない段階で、えらそうに個性・能力なんていえないだろ。

 仮に、法曹の世界で能力を発揮できなくても、法科大学院で身についたその計り知れない能力は一般社会で十分意味がある、というのなら、わざわざ法科大学院だけで教えるなんてセコイことせずに、普通の大学でプロセスによる教育を取り入れて教えてやればいいじゃないか。その方がよほど学生も多いし、世の中のためになるんじゃないのか。

とにかく、法科大学院が振り回す「プロセス」という言葉には、謎が多すぎる。

本当は自分でも説明できないんじゃないのか?と思われても仕方ない面もあるような気がする。

 仮に、プロセスによる教育が、少人数双方向の密度の濃い教育を意味するのなら、私の受けた司法研修所・配属地での司法修習は、まさにプロセスによる教育だった。司法試験に合格し一定の能力が担保された実務家の卵に対して、一流の実務家がそれこそ心血を注いで教育をしてくれた。起案の添削なども信じられないくらい丁寧で、教官はいつ寝ているのだろうと不思議に思ったくらいだった。法曹としてのあるべき姿勢などについても、大きく影響を受けたと思っている。

 プロセスによる教育が上記の意味なら、プロセスによる教育は法科大学院の専売特許ではない。むしろ司法修習の方が、適切なプロセスによる教育が可能であるし、司法修習で実務家が行う方がより適切であると私は断言する。

 考えて見れば、当たり前だ。自動車の運転を習うのであれば現実に自動車を運転している人から習うべきだ。いくら大学でエンジンやブレーキの研究をし、自動車について知識が豊富であったとしても運転の経験がない人から、運転の勘所は習うことはできないからだ。

 法科大学院の教員の多くが実務経験者であるのならともかく、むしろ学者さんが多い現状では、法科大学院がいくらプロセスによる教育を標榜したところで、たかが知れているように思う。

(続く)

プロセスはもう聞き飽きた!~1

 9月1日に、法科大学院協会が「『法曹養成制度改革の更なる推進について』に対する意見」を公表している。

 要するに、①法曹有資格者の活動領域はもっとありそうだ、②今後の法曹人口は増やしていかねばならず、それが法曹養成制度改革の理念に沿う、③法科大学院は組織見直し、教育の質の向上、経済的時間的負担軽減させれば制度として正しい、④予備試験は抜け道だから規制するか負担を重くすべき、司法試験の科目を少なくしろ、法科大学院卒業水準まで司法試験の合格水準を下げてくれ、と法科大学院側は言っているようだ。

 ①については、学者さんが絵に描いた餅はもう見飽きたので、さっさと食べられる餅を示してもらいたいところだ。民事一般事件、刑事事件、少年事件、破産事件など軒並み減少している中で、本当に活動領域の拡大を明確に示して頂けるのならそれは素晴らしい。
 ただ、今のところ、学者さんは抽象的に需要はあるはず、あるはず、と言いつのるばかりで、何一つ実のあるお話しは頂いていないような気がするけどね。

 ②については、法曹養成制度改革の前提に司法制度改革があって、司法制度改革は法曹への需要が飛躍的に拡大するという完全に誤った予測の下に改革を開始した、という点を忘れてしまっているようだ。法曹への需要は飛躍的に拡大していない(むしろ減少している)のだから、そもそも司法制度改革も誤った前提の下に行われたものだし、その一環としてなされた法曹養成制度改革も、正しかったと盲信してよいものではなかろう。
 学者ならそれくらいわかるんとちがうかな。

 ③については、10年もかかって未だに改革をし続けなければならない制度なら、制度自体に無理があったんじゃないの、と足下を見直してみる必要があるだろう。法科大学院にとって最も重要なはずの教育の質について、10年経っても解決できずに未だに改革し続けなきゃならんとは、失笑モンだ。そんなモンに税金を投入させられる国民の皆様にとっては、百害あって一利無しなんじゃないのか。

 ④については、ちょっと図々しすぎないか?
 法科大学院がお金を取って時間もかけさせて、看板通りの素晴らしい教育をしているのなら、司法試験合格率において予備試験組に遅れをとるはずがないじゃないか(実際には完敗)。予備試験合格者がいくら増えても、プロセスによる法科大学院教育は素晴らしいんだから、本来なら負けるはずがないだろ。予備試験の負担を増やして予備試験組を減らそうなんて姑息な手段をとらずとも、正々堂々と司法試験で勝てばいいだけじゃないか。なぜそうしないんだ。
 法科大学院の方が幅広い教育をしていると豪語するのなら、司法試験科目をもっと増やしてもらいたいと要望するのが筋じゃないのか。逆に司法試験の試験科目を減らしてくれ、法科大学院卒業レベルまで司法試験レベルを下げてくれ、というのは、法科大学院には、きちんとした法曹の基礎レベル(司法試験合格レベル)まで教育する能力がないことを認めちゃってると受け取っていいんですかね。

 そもそも、法科大学院のための司法試験じゃありません。国民の皆様のために、受験生に法曹としての基礎的素養があるかどうかを判定するのが司法試験です。どこの医学部が、うちの医学部生の医師国家試験合格率が低いので、医師国家試験を簡単にしてくれなんて図々しい提言をしますかね。

 とまあ、ざっと見ただけで突っ込み処が満載で困ってしまう。

 さて、ようやく本題だが、この意見書の中ではプロセスとしての法曹養成制度、プロセスとしての法科大学院教育という言葉が頻繁に出てくる。プロセスという言葉だけ勘定しても9箇所に出てくる(数え間違いがなければ)。

 ところがその実態は何なのか一向に分からない。

(続く)