司法試験委員が法科大学院に求めるもの~民事系1

今回は民事系第一問を取り上げることにする。

(引用開始)

4 法科大学院における学習において望まれる事項
 これは,民法に限ったことではないが,法律家になるためには,何よりも,具体的なケースに即して適切な法律構成を行い,そこで適用されるべき法規範に基づいて自己の法的主張を適切に基礎付ける能力を備える必要がある。こうした能力は,教科書的な知識を暗記して,ケースを用いた問題演習を機械的に繰り返せば,おのずと身に付くようなものではない。重要なのは,一般に受け入れられた法的思考の枠組みに従って問題を捉え,推論を行うことができるかどうかである。それができていなければ,条文や判例・学説の知識が断片的に出てくるけれども,それを適切な場面で適切に使うことができず,法的な推論として受け入れられないような推論を行うことになりがちである。
 そうした法的思考の枠組みの要となるのは,法規範とはどのようなものであり,法的判断とはどのような仕組みで行われるものかという理解である。例えば,法規範には,要件・効果が特定されたルールのほかに,必ずしも要件・効果の形をとらない原理や原則と呼ばれるものがある。法規範となるルールが立法や判例等によって明確に形成されており,その内容に争いがなければ,それをそのまま適用すればよいけれども,ルールの内容が明確でない場合には,解釈によってその内容を確定する必要がある。そこでは,それぞれの規定や制度の基礎にある原理や原則に遡った考察が必要となる。また,法規範となるルールが形成されておらず,欠缺がある場合には,同じような規定や制度の基礎にある原理や原則,さらには民法,ひいては法一般の基礎にある原理や原則にまで遡り,これを援用することによって,不文のルールを基礎付けなければならない。そのような法規範の確定を前提として,その要件に事実を当てはめることによって,実際の法的判断を行う。
 そうした基本的な法的思考の枠組みが理解され,身に付いていなければ,幾ら教科書的な知識を暗記しても,また,幾ら問題演習を繰り返し,答案の書き方と称するものを訓練しても,法律家のように考えることはできない。
 司法試験において試されているのも,究極的には,このような法的思考を行う能力が十分に備わっているかどうかである。もちろん,その前提として,それぞれの法制度に関する知識は正確に理解されていなければならず,それらの知識の相互関係も適切に整理されていなければならない。しかし,そのような知識や理解を実際に生かすためには,法的思考を行う能力を備えることが不可欠である。
 法科大学院では,発足以来,まさにこのような法的思考を行う能力を養うことを目指した教育が行われてきたと見ることができる。司法試験の合否という表面的な結果に目を奪われることなく,その本来の目標を今一度確認し,さらに工夫を重ねながら,その実現のために適した教育を押し進めることを望みたい。また,受験生においても,法律家となるための能力を磨くことこそが求められていることを自覚して,学習に努めていただきたい。

(引用ここまで)

<超訳>~司法試験委員の言いたいんだろうなということを推測しての私の意訳

4 法科大学院の学習はこうやらなあかん

 法律家になろうと思たら、具体的なケースを解決できるような適切な法律構成ができなあかん。ほんで、その法律構成で使われるべき法規範に基づいて、自分の主張をきっちり基礎づけるだけの能力がいるのが当たり前。せやけど、こんな力は、教科書的な知識の暗記と事例式問題を機械的にやれば身につくモンとは違う。大事なんは、一般に認められとる法的思考の枠組みの中で、問題を捕まえて、法律にきちんと書いてないけどこうなるはずや、と当たりがつけられるかどうかや。それができひんのやったら、条文や判例学説は形だけ知っとるけど、つかえへんちゅうことや。バラバラの知識は持ってても、使える知識と違うってことやな。

 法的思考の枠組みの中で大事なんは、法規範ってどんなもんか分かっとること、法的判断ちゅうたらどんな仕組みでやるかについて理解できとるかどうかや。法規範ゆうたら、どんな要件があったらどんな効果が認められるかっちゅう、決まったルールがあるねんけど、その背景には要件・効果の形はとってへんけど、その規範を生み出した原理や原則があんねん。従うべき法規範のルールが法文とか判例できっちりされとって、内容に争いがないんならそれ使うだけでええネンから簡単やわな。せやけど、一応、法律には書いとるけど、それにあてはまるんかどうか分からん場合もあるやろ。

 例えば、殺人罪は「人を殺したるものは・・・」と書いとるけど、そこで書いとる「人」に、生まれてくる途中の嬰児が含まれるかどうかは、条文上はわからへん。なんぼ条文見つめてもそれだけでは答えは出てけえへんのや。こんな場合は、解釈によってその内容を決めなあかん。この解釈をするときに、それぞれの規定や制度の基になっている原理・原則にまで遡って、考えなあかんのや。殺人罪は人の生命、傷害罪は人の身体ちゅう法益を守ろうとする規定やろ、胎児には堕胎罪があるけど、これは殺人罪・傷害罪に比べて刑は軽いわな。ってことは刑法は、生命・身体に対する罪の章での「人」は、胎児より厚く保護しようと考えとるっちゅうことや。自然の分娩期で出産途中の胎児は生育可能性は高いやろうし出産したら当然「人」や。あと少しで疑いなく「人」になれる段階や。だから、部分的であっても母体外で独立且つ直接的に生命・身体が侵害されうる時点になれば、堕胎罪で保護するよりも、「人」として殺人罪・傷害罪で保護すべきやと考えることには十分理由があるやろ。それに、一部でも露出したら攻撃可能やわな。だから、母体から胎児が一部露出した時点で「人」として扱う一部露出説を唱える根拠があるっちゅうことになる。それに、全部露出説やったら、ほとんど露出している状態の嬰児を殺しても殺人にならんことになるけど、それは一般常識から見ても不合理やろ。

 こんなふうに、簡単に見える解釈にも相当の原理原則からの論拠がある。単に母体から露出しただけで侵害が可能になるからっちゅう理由だけしか覚えてへんのやったら、一部露出説の理解として十分やないともいえるんや(私見も入っていますのでご注意)。

 そればっかりやないで。そもそも法規範となるべきルールがない場合もある。事実は小説よりも奇なりやから、立法者が想定しておらん場面かて当然あり得る。そんなときは、似たような規定や制度がどういう原理・原則で作られとるんか、さらには民法やそれだけやのうて法一般の基礎にある原理・原則まで遡って、「書かれていないけど、こう解決すべきや」と考えるルールに、多くの者が納得できるようなきちんとした根拠付けをしてやらんといかん。勝手にこう考えたら都合がエエからそうさせてもらいます、ちゅうのでは、無茶苦茶な世の中になるさかいな。
 そういうルールを確定した上で、そのルールに照らしたらこの問題をどう解決するべきか、ってことを考えなあかんのや。

 こんな感じの法的思考の枠組みを理解して身につけとかんかったら、実務家としては全く使えん。いくら教科書に書かれたような内容を暗記しても、幾ら問題演習を繰り返して、答案の書き方を勉強しても、そもそもの考え方を身に付けておかんと、全く実務家としては使えんのや。実際持ち込まれる問題は、教科書通りの事案なんてないし、同じものなんてあらへんで。一つ一つ事情の違う問題に対応できひんのでは、法律家とは言えんわな。

 司法試験で見とるのも、結局は、法的思考をする能力があるかどうかや。もちろんその前提として、法制度に関する知識は正確に理解されてへんとあかんし、個々の知識が相互にどのような関係にあるのかについてもよう分かっとかんとあかん。敢えて指摘するっちゅうことは、現段階では答案を見る限りは、全体として知識も関係についての理解も不十分やっちゅうことやで、念のため。

 法科大学院では発足以来、本来やったらこんな法的思考能力を養うことを目指してきたはずや。目標通りに事がはこんどるんやったら、わざわざこんなに長くは書かんでもええねん。「法科大学院の教育成果が出て満足してます、この調子で教育してね。」で済む話や。でも、答案見たらできてないねん。だからわざわざ指摘してんねん。よう読んでもろたらわかるけど、法科大学院の教育が成果を上げている、上手く行っている、とはどこにも書いとらんやろ。司法試験の合格も大事やけど、とにかく一番大事な法的思考力ができてへんのやから、しっかり工夫して教育せなあかん。
 受験生もそうやで。将来法律家になったときに、教科書に書いていないから分かりません、ではとおらんのやから、しっかり勉強して欲しいと思うてんのや。
 

おそらくこんな感じではなかろうか。

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