私の出身は、和歌山県の太地町だ。
とは言っても、両親の仕事の関係で、乳児期は白浜町、幼児期初期は伊勢市で暮らし、保育園の年長組の時に、太地町に引っ越し、そこから大学受験で浪人するまで、太地町で過ごしてきたのだ。
その当時、太地町では、商店に子供が入るときは、「こんにちわ~!」ではなく、「は~い~!」と言って入っていったように記憶している。なかなかイントネーションが難しくて、苦労したので多分間違いないだろう。
また、とうふのことを「とふ」と呼んだり、「~~した方が良いですよ」ということを「~~しやませ」と言ったり、何か失敗したときの間投詞として「あいや~」と言ったり、結構、子供ながらに言葉は難しいものだと、カルチャーショックを受けたものだった。
お店の呼び方もいろいろだった。
例えば、私のいた森浦地区には、駅前に商店兼タバコ屋の通称「タバコ屋」。酒屋は「林」、お隣でパンなどを売っていたお店は「橋本」(私の家では単に「となり」と言っていた)、食料品などを普通の家の玄関先の土間で売っていたのは、「花子おばさんとこ」、森本商店は昔、馬を飼っていたということで「うまや」と呼ばれていた。
私はよく、おつかいで、「花子おばさんとこ」に、とうふを買いに行かされ、卵を泡立てたりするのに使う金属製のボールを抱えて歩いて行き、そこで、お店に置かれている水を張ったポリバケツの中に何丁か沈んでいる豆腐を慎重にすくい上げ、一丁買ってきたものだった。乱暴に扱うと、売り物の豆腐がかけてしまったりするので、子供ながらにゆっくりと豆腐をサルベージしたものだ。
ちょっと外出するときも、自宅に鍵をかけることなどなく、子供が遊んでいる際に勝手に他所の家の庭や土間を走り抜けたりするなど、今から考えてみれば、本当にのどかな牧歌的な時代と街だった。
あれからもう40年近くが過ぎ、街はより便利になった。
しかし、今と違って、何故かあの頃の方が、「街が、人々が、確かに生きていた。」と、思うのは、理由は分からないものの、決して、単なる私の感傷だけではないように思う。