先日、ある少年事件の抗告審を受任した。
ツイッターで、散々つぶやいていたように、私への依頼が抗告期限7日前、家庭裁判所が決定書きを抗告期限2日前にようやく出してくれたという劣悪な環境の下、私も少年のご両親も全力で動いたつもりだ。
疎明資料も多数提出し、嘆願書の署名も約400名ほど集めた。
しかし、高裁の重い扉は開かなかった。
少年事件の抗告は、非常に厳しい。
時間的にタイトな面もあるが、制度的に自判が許されない厳格な事後審的構造を持っているという面も見逃せない。
少年事件の抗告審は、原則として原決定の当否を審査するもの、つまり、家庭裁判所が審判の時点で入手していた事情に基づいて下された決定が、妥当だったか否かを高裁が審査するものであって、家裁の審判のあとに少年がどれだけ反省を深めようと、少年を取り巻く環境が劇的に変化しようと、基本的にはそのような事情は考慮外なのだ。
逆にいえば、少年審判においては、家庭裁判所での審判が最も重要であるということにもなる。家裁での審判時点でどれだけ反省し、示談を含めてどれだけ環境を整えることが出来ていたかが勝負のキモ、ということだ。
抗告審から受任した事件も、何件かあるが、いずれも、もう少し早く受任して反省を深めることが出来ていれば・・・・・と歯がゆい思いをする事件だった。
反省しろ、反省しろ、と1万回いっても、それだけでは、少年は、悪いことはしたということは理解できても、自分を変えていくような反省は、なかなかできない。だから、付添人が少年の問題点について、ヒントを出しながら考えさせる必要があるのだし、付添人の最大の価値はそこにあると私は思っている。
だからこそ少年事件は時間がかかるし、奥が深い。上手くいった際にはとても嬉しい。
しかし、だからこそ、少年事件は、きっちりやればやるだけ、弁護士の経営的にはペイしない。
生活を超越した表現を行う芸術に携わるものといえども、お金を稼いで生活しなければならないという、芸術家の苦悩にも似た、辛さを味わうことも多いのだ。