先日、「こんな日弁連に誰がした」(平凡社新書)の著者でもある、小林正啓先生とお話しする機会があった。
そこで、未だに日弁連が「弁護士は社会生活上の医師として・・・・」といいたがる話が出た。小林先生はかつてブログで、「弁護士=社会生活上の医師」という見解を、ばっさり、弁護士の医師コンプレックスであると断言されている。
http://hanamizukilaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-34ad.html
もう少し分かりやすくいうと、こういうことだ。
医師の相手は、病気だ。病気は人類にとって絶対的に悪だから、相手をやっつければやっつけるだけ、医師は評価されるし、病気と徹底的に闘う医師の使命を果たすことが、そのまま人類のためになる。
しかし、弁護士が誰かに依頼されて相手にするのは、会社か私人だ(国の場合もあるが)。
会社や私人は、私たちと同様に社会生活を送っている存在だ。弁護士が依頼者の希望どおりに相手をやっつければ、依頼者は満足するかもしれないが、相手方は社会生活上深刻なダメージを受ける可能性がある。弁護士が相手をやっつければやっつけるだけ、誰かが痛い目を見ることになるのだ。
だから、極論すれば、弁護士が社会の隅々で活躍する社会とは、社会の隅々で誰かが痛い目にあわされる可能性がある社会と同義なのだ。
医師の仕事は絶対的善であるが、弁護士の仕事は依頼者にとっての善、相対的善にすぎないのであって、小林先生も指摘されているとおり、弁護士は社会生活上の医師どころか、社会生活上の傭兵と評価することも不可能ではない。
弁護士が増えてコストが下がれば、こちらが弁護士(傭兵)を雇いやすくなるから良いじゃないかと単純に考える人もいる。しかし、良く考えてみると、こちらが弁護士を依頼しやすくなることは、こちらを痛い目に遭わせようと考えている人が弁護士を依頼しやすくなることと、表裏一体の関係なのだ。
こちらが全く悪くなく、完全な言いがかりだけの不当訴訟でも、相手が弁護士を立てて提訴してくれば、やむを得ずこちらも弁護士を立てて防衛するしかない。相手が悪いとしても、こちらが依頼する弁護士にかかるコストは、プロの用心棒を雇うことと同じだから当然、自分が負担せざるを得ないのが原則となる。
「弁護士=社会生活上の医師」とのスローガンの下、新人弁護士が就職難に陥っているにもかかわらず、弁護士をどんどん増加させている、現在の司法改革は、働く宛もないのに「社会生活上の傭兵」を次々と社会に招き入れているようなものだ。
武器は持っているが働く場所(法的需要)もなく、生活できない傭兵は、食うために、その武器を誰かに向けざるを得ない時期がやってくるかもしれない。そのターゲットになる誰かとは、病気やショッカー(by仮面ライダー)のような絶対的悪ではなく、普通に暮らしている貴方かもしれないのだ。
弁護士増員さえすれば、本当に社会の問題が解決していくのか、その考えが正しいものなのか。
もう一度良く考えてみる必要があると思う。
※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。