「ボトルネック」  米澤穂信 著

 東尋坊で2年前に亡くなった恋人を追悼するために、現地に赴いたぼくは、「おいで、嵯峨野くん」という声を聞いた瞬間に、絶壁から墜落した、はずだった。
 しかし、ぼくが気付いたのは、自宅近くの金沢市内の浅野川の公園。
 訳も分からずに、帰宅すると、自宅にいたのは「見知らぬ姉」だった・・・・・・。

 まず、先にお断りしておきますが、読者によって非常に評価が分かれる作品だと思います。そして、気分が滅入っている人は読むべきではありません。

 一見ミステリー仕立ての青春小説に見えながら、後半になると一気に、極めて鋭く人間の影の領域に踏み込む、痛いほど自分の影の部分に踏み込んでくる、それだけの威力が、この作品にはあるように思うからです。

 しかし、「生きるとは?」、「今自分が生きている世界の中で、一体自分の価値はどこにあるのか?」など、について思春期に考えたことのある人にとってみれば、その頃の自分がなんと無力であったこと、そしておそらく痛々しいほど繊細過ぎたかつての自分がそのとき確かにその場所にいたこと、その頃大人になれば分かると思っていたのに大人になった今でも自分の価値はおろか多くのことについて実はなんにも分かっていないこと、などについて、心のかさぶたをこじ開けられる思いがするのではないでしょうか。

 間違いなく、恐ろしいまでの現実を理解したときの「ぼく」が握りしめたこぶしは、本当に痛かったのでしょう。おそらく、それだけつらかったのでしょう。

 物語の終盤で「ぼく」が内心を語ります。

~ぼくも、ぼくなりに生きていた。別にいい加減に生きてるつもりはなかった。しかし、何もかもを受け入れるよう努めたことが、何もしなかったことが、こうも何もかもを取り返しがつかなくするなんて。

 兄は言った。他の誰にもない個性が、誰にだってある。お前はお前しかいない。

 なるほど、そうだろう。否定しようもない、当たり前のお題目。

 しかしそれは何も意味しない。違っていることはそれだけでは価値を生まない。~

 社会的に全く無力と言っていい多くの普通の若者にとって、唯一主張しうる個性についてさえ、他人と違うという個性だけでは価値がない、ということに「ぼく」は気付かされるのです。なんという痛い言葉でしょうか。

 作者は、結末を明らかにしていません。いずれの方向での結末もあり得る時点で、ふっと、この作品を閉じてしまいます。読者の想像に任せる方法を選んだのか、作者自身でも結末を決めかねたのか明確ではありません。

 しかし、私は、作者が終章に「昏い光(くらいひかり)」と記していることから、例え昏くても「ぼく」は、光に向けて歩き出してくれたのではないかと考えたいと思っています。

新潮文庫 476円(税別)