ニューズウイーク日本版 6.24

 ニューズウイーク日本語版6.24号の、「新資本主義宣言~モラルある強欲こそ」という記事を読んだ。

 ニューズウイーク国際版編集長ファリード・ザカリア氏が書いた記事であり、アメリカ発の今回の世界経済危機の本質を問い、法的に許されることであっても道徳的とは限らない、規制強化や制度改革も必要だが最も大切なのは個人の倫理観を取り戻すことだ、と述べる。

 この記事の中に、気になる記載があった。

「この10年、世界で起こったことの大半は合法的なものだった。(中略)だが、責任を持って誠実に気高く行動したものは殆どいなかった。どうでも良いことに聞こえるかもしれないがそうではない。資本主義であれ社会主義であれ、どんな体制もその核に倫理や価値観がなければ機能しない。常識や正しい判断、倫理規範がなければどんな改革も不十分となってしまう。」
「アメリカ社会で起きている大きな変化の一つは、自主規制をする同業者組合のようなシステムが消えつつあることだ。かつて弁護士と医者、会計士は自らを公的責任を伴う民間プロフェッショナルとみなしていた。自分の事務所のためだけでなく、社会全体にとって善か否かを考えながら責任感を持って行動していた。弁護士は、時間を浪費する訴訟ややみくもな買収を考え直すよう依頼人に助言することさえあった。今や弁護士だけではなく、あらゆる専門家が変わってしまった。」

 つまり、ザカリア氏の書き方によれば、アメリカにおいては、社会全体にとって善かどうかという観点で責任感を持って行動する専門家はもはやおらず、(おそらく)弁護士が最も先陣を切って無責任な専門家へと変貌を遂げた、と読むことができる。

アメリカでのお話
(A弁護士のオフィスで)

依頼者「A弁護士さんでいらっしゃいますか?」

A弁護士「はいそうです。」

依頼者「料金はおいくらですか?」

A弁護士「簡単な質問3つで100ドルです。」

依頼者「それって高くはないですか?」

A弁護士「ちょっとは高いかもしれないね。・・・それでは100ドルになります。」

 このように冗談で揶揄されるほど、アメリカの弁護士は法律をビジネスの道具にすることに長けているようだし、そうでないと、厳しい競争下では生き残っていけないのだろう。弁護士だって、職業だし仕事をすることによって生計を立てなければならないからである。先だってブログにも書いたが、弁護士の需要は拡大していないにもかかわらず、弁護士の人口は爆発的に増加しつつある。早晩、食うにも困る弁護士があふれかえるだろう。その日は遠くない。そうなった場合、食うにも困る弁護士に、社会にとって何が善か考えて行動しろと言っても無理だろう。とにかく稼がないと明日の生活にも困るのだし、稼ぐためには法律問題を解決するしかないのだから、本来争うべきではない事件でも法律問題として争いにする他なくなってくる。

 そのように生存競争を弁護士に強いて、無責任な専門家を大量生産することが、本当に日本にとって良いことなのか。

 アメリカが訴訟社会だから大量の弁護士を必要としたのではなく、大量の弁護士の食い扶持を賄うためアメリカが訴訟社会に変わってしまった可能性は否定できまい。

 国民は無責任な専門家である弁護士を大量に求めているのか、それとも社会にとって善かどうかという観点で責任感を持って行動する需要に応じた数の弁護士を求めているのか、需要を無視して弁護士を増やせば無責任な弁護士が必然的に増加するという事実を念頭に置いたうえで、本当に求められている弁護士像を改めて問い直す必要があるのではないだろうか。

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