「愛しい女」 三浦哲郎著

  念仏トンネル。

 ものすごいネーミングである。夏であれば稲川淳二が、若干聞き取りにくいだみ声で、深夜の怪談を語ってくれそうな名前のトンネルである。

 しかし、今から20年以上前の学生時代、私は、北海道をバイクでツーリング途中に、一人、その念仏トンネルに向かっていた。

 念仏トンネルは、北海道積丹半島の神威岬付近に実在するトンネルである。現在では落石危険地帯ということで、岬への旧道と念仏トンネルは立入禁止区域になっているそうだが、当時はそんな立て札があったかどうかはっきりとした記憶がない。

 寂れきった一軒だけの売店から、岬への旧道を歩き、海岸まで降りてきた付近に念仏トンネルはあったように思う。素堀りの、幅と高さ約2mくらいの小さな入り口のトンネルだった。相当風の強い日だった。風と波の音しか聞こえない。他に誰もいないのに(いや、誰もいないからこそ)不気味である。

 入り口からから覗くと、トンネルの中は真っ暗である。出口の明かりさえ見えない。念仏トンネルは、約60mくらいのトンネルだそうだ。両端から掘り進められたものの、測量のミスで直線で開通できず、中央でほぼ20mほどずれていたものを無理矢理直線でつないで開通させているのである。海岸沿いの旧道を行き来していた灯台守の家族が、高波にさらわれる事故があったため、不完全であってもなんとしてでも開通させたかったトンネルのようである。

 だから、入り口からはいると出口は見えず真っ暗である。手探りでまっすぐ途中まで歩き、90度折れ曲がって更にまっすぐ暗闇をしばらく歩き、再度90度折れ曲がってようやく出口の光が見えるのである。

 出口の先に浮かぶ神威岬の光景は、実に素晴らしいもので、独り占めするには惜しいくらいであったが、それは、真っ暗な念仏トンネルを心細い気持ちで乗り越えたからこそ、そう思えるような気もした。

 ・・・・・私が、どうしても念仏トンネルを訪れたくなっていたのは、三浦哲郎の「愛しい女(ヒト)」という長編小説を読んだからだった。ムクドリの卵が蒼い色をしていることも、この本で初めて知った知識である。

 今から思うと、私は、いろいろ青臭いことを考えながら旅をしていたに違いない。ひょっとすると、三浦哲郎の小説を読んでどうしても念仏トンネルに行ってみたかった当時の私は、落石危険地帯につき、既に立入禁止にされていた旧道~念仏トンネル区域に、それと知ってわざと入っていったのかもしれない。

 社会人となった今では、もちろんそんな危険な場所には近寄らなくなった。しかし、そのときに落石事故に遭わなかった幸運に感謝すると同時に、ときどきその頃の青臭さが懐かしい気がするときがある。 

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