先週末は、非常に暖かく、まるで初夏を思わせるような日差しでした。
紅葉はもちろんですが、桜も、お日様の光が透けて見えているのが美しいと思うときがあります。
鴨川の河川敷などものすごい人出で、ちょっとお花見というには騒々しすぎる感じがしました。そこで、ギックリ腰の回復を試す意味もあって、自動車で大原の方まで、少し足を伸ばして見ました。
大原には、後に下流で鴨川に合流する高野川が流れています。国道を離れて脇道に入れば、その河川敷に桜が何本も植わっている場所に出ます。
ただ、もう老木であるせいか、今を盛りと満開に花開く桜の木ではありません。枝の所々にまばらに花をつけているくらいです。花見という華やかなイメージとは相当かけ離れたものです。
しかし、生命力を誇示しているようにも見える鴨川の桜と異なり、何となく奥ゆかしい感じがして、これはこれでよいものだ、と私には感じられました。
その桜を見ていると、壇ノ浦で入水したものの、捕虜とされ、その後、ひっそりと先帝と平家一門の菩提を弔い続けた建礼門院が、この大原で庵を結んだことをなんとなく思い出しました(寂光院)。
大原の山には、山桜もありましたから、きっと、建礼門院も桜を見たのでしょう。
安徳天皇の母として一時は栄華を極め、一門と共に滅びようとしても叶わなかった建礼門院は、どのような想いで桜を眺めたのでしょうか。
そんなことを思いながら、眺めた桜の古木は、私には、何となく花見に似つかわしい対象であるような気がしたのでした。