法科大学院のあきれた状況

 法曹人口問題PTでご一緒した増田尚弁護士が、PTのMLに、先日、流して下さった情報です。

 自民党の河井克之議員のブログ(http://www.election.ne.jp/10868/61155.html)からの引用になります。 長くなりますが、是非お読みいただきたいので、以下に引用します(なお、赤字部分は坂野が色を付けました。)。

(以下引用)

 昨日(8月28日)午前11時から党本部で開かれた自民党の文教合同会議で、法科大学院についての新規の概算要求に批判が続出し、承認されないという異例の事態が起こりました。

 来年度政府予算案概算にあたって文部科学省は、「法科大学院教育水準高度化事業」として5億円を要求してきました。取り組み例として、①質の高い入学者選抜方法を研究開発する、②質の高い教員を確保する方法を共同で考える、③厳格な修了認定・成績評価のシステムを開発するという内容になっています。でもこれでは、これまで法科大学院では質の高い入学者選抜が実施されず、教員の質は低く、修了認定は大甘だったと事実を世間に自白するようなものではないでしょうか。どれも高度化事業として特別に予算を組むのではなく、法科大学院の通常の業務の範囲内で行うべきことばかりです。しかも新規要求といいながら、似たような内容の事業は今年度に四件で9200万円余をかけて実施中。私に説明に来た文部科学省の職員は、「いまの事業をスクラップしました」と胸を張っていましたが、なんのことはない、9200万円の事業が5億円の事業に名前だけ変えて“焼け太った”だけです。

 こんな無駄使い事業に国民の貴重な税金を投入しなくても、既に法科大学院には国から手厚い支援が行き渡っています。文部科学省からの財政支援だけで、法科大学院関連にはなんと年間200億円もの巨費が投じられています。また最高裁判所と法務省からは数十人の現職判事・検事が三年間、法科大学院教授として派遣されています。加えて、学生一人ひとりは、三年間で授業料等や生活費、そして本来仕事をしていれば得ていた逸失利益を含むと2千万円もの重い経済的負担を強いられている。これだけみんなが寄ってたかって金と人材をつぎ込んでいるうえに、さらになぜ5億円ものお金が必要なのでしょうか、理解できる説明はとうとうありませんでした。文科省の職員は私にこうも言ったのです。「これは法科大学院の教育改善を促す“あめ”なんです」と。“あめ”がないと仕事をしないような法科大学院の教員は辞めてしまえと私は言いたい。互いに連絡を取り合いたいのならいまはメール等で十分。どうせ予算消化のために会議や出張を無理やり作り上げるのが関の山なんです。

 一万歩譲って、「私たちも頑張っているのですが、なかなか当初の理念どおりに質の向上・確保ができないので、どうか助けてください、力を貸してください」と法科大学院協会が頼んでくるのならまだ検討の余地はあるかもしれません。しかしながら、彼らは一体何と言っているのでしょうか。協会の青山善充理事長は8月7日に発表した『法曹養成制度をめぐる最近の議論について』の中で、自分たちはまったく悪くない、旧試験時代と比べて新司法試験組が劣る根拠はない、むしろ元の仕組みよりも優れているなどと言い放ちました。二回試験で過去最高を記録した不合格率や、7月18日に最高裁が重い口を開いた『新第60期司法修習生考試における不可答案の概要』での新試験組への厳しい評価を無視する、まさに自己反省なき暴論です。国民の血税を有難く使わせていただいていますという謙虚な気持ちをかけらも感じられない文書に私は失望しました。そんな法科大学院になぜさらに金を投入しなければならないのでしょうか。馳浩・党文部科学部会長に促され、役所は何度も何度も説明を繰り返しましたが、言えば言うほどかえって多くの出席議員から反発をかってしまっただけでした。法曹のあり方をまじめに勉強してきた若手議員たちがこの事業の妥当性を追及するだけでなく、閣僚経験の重鎮議員までもが「そもそも法科大学院を出ていないと新司法試験を受験できない今の仕組み自体がおかしいのだ」と発言、元文部科学副大臣が「朝礼暮改ではなく、朝礼朝改でいい。法曹養成制度のおかしいところは素早く見直さなければならない」と言い出す事態に。いつもなら一時間で終わる会議が1時間40分もつづき、たった一人「別の場で議論しよう」と言った人を除けば、今回の新規要求を支持する発言をした議員はまったくいませんでした。皆無。

 結局、馳部会長の決断で、この新規要求は「保留」となり、文部科学省が財務省に対して、自民党は了承していないことを伝える羽目になってしまったのです。役所が提出した概算要求が自民党の関係部会で通らないというのは極めて異例のことです。最近あちこちで言われるようになってきた法科大学院教育における「質の低下」を逆手にとって予算増を図ろうとする役所の思考には、予想されたこととはいえ、唖然とするばかりです。これこそ典型的な“焼け太り”予算です。

 法科大学院で起こりつつある現実を直視した議論が、これから盛んになることを私は心から期待しております。

(引用ここまで)

 年間200億円も法科大学院に税金を投入するくらいなら、これまでの制度のように司法試験に一本化して、司法試験の合格者に対して、きちんと研修所教育を施すことにお金を使う方が、よっぽど建設的でしょう。

 マスコミの方も、法科大学院の言い分を鵜呑みにするのではなく、事実を国民の皆様に伝えていただきたいと思います。なぜなら、これまでマスコミの方々は、優秀な法曹を育てるための法科大学院と連呼されてきたので、法科大学院は優秀な法曹だけを輩出しているという誤解が、国民の間にかなり広がっているからです(私も、相当数の法科大学院卒である優秀な方の存在は否定しませんが、全体的な質の低下は否定できないと考えています)。

 確かに法科大学院の理想は正しかったのかもしれませんが、しかし現実を見て法科大学院制度がその理想に反する結果しか出せない場合、やはり、きちんと事実を報道すべきだと思います。

司法占領 鈴木仁志著

 2020年、近未来の日本。教育ローンで学費を借りながらも、ロースクールを優秀な成績で卒業した内藤は、誰もがうらやむ外資系ローファームに就職する。しかし、そこは、日本企業同士の契約ですら英文で作成され、契約の準拠法(基準にする法律)もニューヨーク州の法律を強引に使わせる世界だった。また、簡単な契約チェックにもタイムチャージを水増しして法外なフィーを取るなど、ビジネス(金儲け)としていかに法律業務を利用するかについて、内藤は、アメリカ流の手法を徹底して追求するよう求められる。素朴な正義感を持つ内藤は、正義よりも利益を追求するそのやり方に疑問を感じるのだが・・・・・・・。

 私は恥ずかしながらこの本のことを知らず、パートナーの久保弁護士に勧められて、初めて読みました。非常に面白い小説です。この本は2002年に出版された本ですが、かなりの部分で弁護士の世界・司法の世界の将来を言い当てるのではないかと思います。すでに、弁護士の就職難、ロースクール生の借金問題は、ある程度現実化してきています。

 既に、就職難の修習生が相当数発生しており、弁護士数は過剰となっています。何度も言いますが、弁護士の需要が本当にあるのであれば、どの事務所でも新人弁護士を雇いたくてたまらないはずです。それにも関わらず、就職がない修習生が多いということは、それだけで弁護士過剰の大きな証明なのです。

 欧米並みの法曹人口の必要性を主張される方は、正義よりも利益を追求する法律家が溢れる世界が、本当に望ましいとお考えなのでしょうか。生活に困った弁護士が、自分の法的知識を悪用して市民を食い物にする、そのような時代になる危険性は高まりつつあります。(既に韓国では、弁護士急増の結果、弁護士の反社会的行為が問題になりつつあるようです。)

 「弁護士数の急増に反対することは、弁護士業界のエゴである。」と根拠もなく主張される方々にこそ、是非お読みいただきたい小説です。

大阪弁護士会での就職難解決法

 昨日付で、大阪弁護士会の就職支援に関する特別委員会から、「新61期司法修習終了予定者を対象とする求人登録のお願い(至急)」と題する、ビラがレターケースに届けられていました。

 要するに、大阪で司法修習を行った新61期が9月22日に、大阪に戻ってくる予定なのですが、そのうち相当数が未だ就職先のない状態であるから、求人して採用を考えてくれということなのです。(ビラでは、「大阪で弁護士をしたい多くの新61期の修習生が未だ採用先のない状態にあります」と記載されています。)

 これには、簡単な解決方法があります。

 先の8月6日の大阪弁護士会臨時総会では、現状の合格者数は容認するという8号議案と、合格者が多すぎるので直ちに減少させるべきであるとする9号議案が審議され、昨年程度の司法試験合格者を容認する8号議案が賛成多数で可決されました。

 8号議案は現状の司法試験合格者数は容認するという趣旨ですから、当然それ(現状の多数合格者の発生)に伴う問題・弊害があっても甘受するという意味を含んでいるはずです。まさか、現状の司法試験合格者数は容認するが、その問題・弊害については俺は知らないよ、という身勝手な方はいなかったはずです。なぜなら、合格者数を直ちに減少させるべきだという9号議案が同時に提出されていたのですから、問題・弊害を甘受できないのであれば9号議案に賛成(若しくは両案棄権)すればいいだけの話だからです。

 つまり、8号議案に積極的に賛成された方は、現状の多数の司法試験合格者発生による問題・弊害も甘受すべき(してもよい)という立場なのですから、その方々はすくなくとも採用には前向きのはずです。

 すぐに8号議案に賛成された方の名簿を作るなどして、就職未定の修習生に配布してあげるべきでしょう。1100人以上の弁護士が採用に前向きなはずですから、簡単にこの問題は解決します。

バイクの思い出~その2

(続きです) 

 原付で、バイクの楽しさの入り口をのぞくことができた私ですが、その世界が結構性に合っていたのか、より速く・より遠くまで行ける次の段階を目指すようになりました。

 当時は、暴走族に対する対策の名残で、自動二輪免許は、小型限定(排気量125ccまで)・中型限定(排気量400ccまで)、限定なし(排気量400cc以上無制限)の3種に別れていました。

 小型・中型までであれば教習所に通えば免許を手にすることはできましたが、限定を解除するためには教習所では不可能で、免許試験場での実技試験に合格する必要がありました。しかも、もともと暴走族を大排気量バイクに乗せないために、このような免許区分がなされていたのですから、限定を解除する試験が簡単ではその意味がありません。

 この試験を限定解除試験といいましたが、上記の理由から限定解除に合格するには不必要に厳しい試験が科せられていました。 都道府県によって違いますが、免許試験場の試験官が可能な限りイチャモンをつけて合格者を出さないようにしていたため、合格率は概ね数パーセント以下で、司法試験より難しいのではないかとまで言われていました。私も合格するため何度も京都の伏見にある免許試験場に通いましたが、ある程度腕に覚えのあるライダー達が、20名以上トライして合格者ゼロという日が何度もありました。

 しかも京都の場合、試験は予約制で1~2ヶ月に1度くらいしか受験させてもらえません。当時のバイク雑誌には、どの都道府県が合格しやすいかという情報も流れており、合格しやすい県に住所を移して、合格したという話も投稿されたりしていたように思います。

 ですから、晴れて大型バイクに乗れたとしても、まかり間違って免許が取り消されでもすれば、再度極めて厳しい試験に合格しなければ同じバイクに乗れなくなります。合格率数パーセントですから、以前合格できたとしても次も合格できるとは限りません。したがって、当時限定解除試験に合格したライダーは、非常に免許を大事にしており、慎重に模範的な運転をする人が多かったように記憶しています。

 中型免許を教習所で取得した後、限定解除を目指した私も、相当苦労しました。

(続く)

日弁連ニュースの謎

  9月1日付の日弁連ニュース(各弁護士にFAXで送信されてくるもの)に、『法曹人口問題に関する緊急提言に関する、市民の反応は?』と題する記事がありました。

 市民の反応として、宮本・中川・フット・井出という方の発言が載せられていました。日弁連はこの方達が市民の代表と考えているようです。それでは、一体どういう方だろうと思って、日弁連ホームページを探してみると、日弁連市民会議というものが見つかりました。

 その名簿から、

 宮本一子委員は、財団法人日本消費者協会理事、社団法人日本消費生活アドバイザー・コンサルタント協会常任顧問

 中川英彦委員は、前京都大学大学院教授、駿河台大学法科大学院講師、

 ダニエル・フット委員は、東京大学法学政治学研究科教授 、

 井出委員は、株式会社朝日新聞社(大阪本社)社会エディター代理兼地域報道エディター代理、

という方々のようです。

  このような方々の発言が、日弁連にとっての市民の声だ、という形になっているようなのです。

 私は詳しくは知りませんが、市民会議の委員の方は、一般の市民というよりは、肩書きを見る限りどう見ても大手新聞社社員や大学教授などいわゆる有識者・上流階級といわれる方々のように思えます。

 市民会議が想定している市民とは、大学教授や一流会社社員だけなのでしょうか。ちょっと違う気がします。このような市民会議での発言を市民の声だとして、公開するのは本当の市民の声を聞けていない証拠ではないかとさえ思えてしまいます。

 8月21日のブログにも書きましたが、企業の生の声は、法曹の質の低下を危惧し、法曹人口増員に非常に懐疑的なようです。このような調査は当然日弁連も知っているはずです。

 しかし、それを無視して、「市民の反応」と題した発言を載せる日弁連ニュースは、何らかの意図を持っているとしか思えません。その意味で、この日弁連ニュースは謎が隠されているに違いありません。

バイクの思い出~その1

 私が昔、バイク乗りであったことは何度かブログにも書きました。

 最初のバイクは、ご多分に漏れず、原付スクーターでした。

 大学に入って最初に手に入れたのはホンダのLEADERという車種で、スピードメーターとタコメーターがデジタル表示というのが、妙に斬新でした。 友人のスクーターと加速競争をしたり、大して違わない馬力を比べたり、まるで子どものように楽しんでいました。

 ただ、私が他の友人と少し違ったのは、かなりの長距離も、そのスクーターで走ってしまったことです。大学のある京都から、和歌山県の実家まで約300キロ弱を原付で往復したこともありますし、大台ヶ原まで登ってしまったこともあります。夏場などは暑いのでTシャツで走るのですが、真っ白なTシャツを着て、和歌山から京都まで走ると、表面が排気ガスで薄黒くなっていたものです。

 親からは、半分アホ呼ばわりされていたのですが、当人は全く気にしていませんでした。

 「風を切って走る」と、バイクでの走りは、よく表現されますが、実際にバイクで走ると、風を切るというよりは、風を自分の身体にたぐり寄せて直接体感することで、大気の微妙な変化を実際よりも拡大して感じることができるように思います。バイク独特の爽快感や、自動車では味わえない視界の広さ、走り疲れた後の缶コーヒーが妙に美味く感じること、などが新鮮に思えていたようです。

(続く)