今朝の出来事

 今朝事務所に向かう途中、大阪市役所の近くの交差点で信号待ちをしているときに、視界の端に動くものがありました。

 何だろうと思ってよく見ると、障害者の方用の黄色い、信号押しボタン装置の上に、一冊の文庫本が載っていたのです。カバーはすでにありません。背表紙が日に焼けているところからすると結構古そうです。自動車が近くを通り過ぎるたびに、自分の存在を訴えるかのように表紙と何枚かのページが踊ります。

 よく手袋やハンカチなどの落とし物を拾った方が、目立つようにと置いておくことはありそうな場所ですが、文庫本は初めて見ました。

 あまりにミスマッチな気がしたせいか、なんだか文庫本付近だけが音のない世界にあって、音のない世界でページがめくられ、また音もなく元に戻ることを繰り返しているような不思議な感じを受けました。

 何故だか、梶井基次郎の「檸檬」を、久しぶりに読みたいと思いました。

法曹人口問題会内集会

 昨日、法曹人口に関する大阪弁護士会の会内集会がありました。私は、アンケート結果の発表係にされていましたから、会員の方が座られる席ではなく、前方の発表者側の席になりました。つまり弁護士会の会長・副会長、PT座長のいらっしゃる席の末席に連なる形になってしまったので、そんな場所に座り慣れていない私は、結構緊張してしまいました。

 会内集会は150名以上の方が参加してくださり、常議委員会に対するPTからの中間報告書案に対して、非常に活発な意見が交換されました。ただ、意見をおっしゃる方は40期以前の方が多く、法曹人口問題で一番つらい立場に置かれていると(少なくとも私には)思われる、50期代以降の方の発言が少なかったのが残念です。
 いまだ、大阪弁護士会においては、上の期の先輩方に向かって率直に意見を申し上げる土壌はまだまだできていないような気がしました。まあ、上の期の先輩方もしゃべりたがる方が多いので、なかなか割って入って発言するのも大変だったとは思いますが。

 PTの委員の先生方の発言も多く、私も発言したいと思っていたのですが、司会者側の席から手を挙げて発言するのもなんだか変でしたので、やむなく、黙っていました。それがおかしかったのか、私のPTでの態度や発言をご存じの川下・森、両副会長からは、終了後に「坂野君の言論を封じることになっちゃったね。ストレス、溜まったでしょう?」と冗談を言われてしまいました。

 ひとつ、気になったのが「この問題で大阪弁護士会の会員が一致する契機ができた」という趣旨のご発言があったように思うことです。その当時のいきさつは、私にはわかりませんが、弁護士会の会員が分裂してしまっており、話し合いもろくにできない状況にあったということなのでしょうか。

 子供の喧嘩でも、しばらくすれば仲直りします。もしこれまで仲直りができずに、お互い喧嘩を続け、結局、どんどん悪くなっていく事態を放置していたのであれば、大坂弁護士会の対応は、この点に関する限り、子供の喧嘩以下のレベルだったのではないかと思ってしまいます。

 素直に状況を分析し、理念だけにとらわれるのではなく、弊害があるのであれば直すべきは直す、間違いがあったのであれば謝るべきは謝る、で良いのではないでしょうか。もう、ええカッコしている時間はないところまで追い込まれているような気がします。

 メンツよりも大事なことがあるはずです。

教会で聴く音楽

 教会と聞くと堅苦しいように思われるかもしれませんが、ヨーロッパのキリスト教教会は、一部を除いて原則として、日中は立ち入り自由のところが多いようです。

 街の散策に疲れたり、急な雨で困ったときは、教会の中で休ませてもらったりしたこともあります。

 たまに、教会に立ち寄った際に、パイプオルガンや合唱の練習に出会うこともあります。私は、オルガンの音色がとても好きなので、そのようなときにはラッキー♪と思って、しばらく聞いていたりします。

 特にバッハのオルガン曲が演奏されているときなどは、とても素晴らしい気分にさせてもらえることもあります。私の知人が、教会での音楽は、音楽がぐるぐる回って昇っていくようだ、と表現したことがありますが、私の印象は似ていますが、少し違います。

 上手く言えないのですが、教会で美しい音楽を聴いた際、私達の座っている地上から、天に向かって音楽という名の儚く、美しく、壊れやすい、硬質の透明な螺旋階段が、すっとのびていくように思えるのです。そして、その階段は、その儚さ・美しさ・壊れやすさ故に、無論私達自身が登れるものではありません。私達の切なる願いを届けるものでもないようです。地上から天へと向かって伸びる階段ではありますが、人間が主体となって伸ばしていく階段ではないようにも思います。

 むしろ天上から何かをさしのべるために、神(という存在があるのであればですが)が、演奏家に命じて音楽を奏でさせ、天と地を一瞬だけ結ばせるように取りはからった、その結果、地上と天を音楽で結ぶことが許されているのではないかと感じられます。ですから、地上から天へと向かって伸びる階段ではあるのですが、同時に天から地上へともっと大きな流れがあるような気がするのです。

 結局、何のことかよくわからなくなっちゃいましたね。感覚を伝えようというときには、いつも言葉足らずになってしまい、もどかしい思いをします。

 とにかく、もし、機会があれば、是非一度教会での音楽を体験されることをおすすめします。

法曹人口問題PTその6

 本日の、法曹人口問題PT会議は、予定より大幅に延長されて議論が続きました。

 もちろん、増員反対でない立場の先生もおられるので、全会一致というわけにはいかないのは当然です。

 様々なご意見があって、確かに参考になったのですが、本当に若手が現実に抱いている危機感についてご理解して頂いているのかよくわからない先生のご発言もありました。確かに従来の弁護士会執行部の態度との継続性なども必要なのかもしれませんが、実際に弊害が出ているのであれば素直に過ちを認めて、是正すべきではないかと思います。

 その是正する力こそが、弁護士会執行部に必要とされる力なのではないでしょうか。従来の態度との継続性と現実の弊害と比較すれば、いずれが大事かは、一目瞭然ではないかと思うのです。

 ただ、そういっても私も若手の一人に過ぎず、私の言う「若手の意見」が、本当に若手の意見をきちんと代弁できているとも限らず、私なりの観点で発言しているに過ぎません。

 6月9日の会内集会では意見交換の時間もあります。是非参加して、様々な方のご意見を聞いてみて下さい。

人形劇

 小学生のとき、両親に連れられて初めて東京見物に行った際に、劇団プークの人形劇を見ました。

 演じられた出し物が何であったのか、どうしても思い出せないのですが、面白かったという印象だけは強く残っています。

 その印象が残っているせいか、海外旅行に出かけた際には、美術館・博物館よりも、人形劇があるとつい心が引かれてしまいます。

 といっても、人形劇が年中開催されているわけではないので、これまで、ミュンヘン・プラハくらいでしか見物できたことはありません。

 なかでもプラハは人形劇が盛んな街のようで、土産物屋でもマリオネットがよく売られています。私はプラハのミノール劇場で、偶然、子供向けの限定公演?を特別に見ることができました。

 切符売り場の人が、なにやら(多分子供限定だから駄目だということだったのでしょう)言っていたのですが、私があまりにも言葉がわからなかったため、仕方なく入れてくれたような感じでした。ほかの観客といえば、平日の午前中でしたので、引率されてやって来た幼児か小学生しかいなくて、本当に見せてもらって良いのか、席に着いてからも落ち着かなかったことを覚えています。

  出し物は、言葉が全くわからないこともあり、何のことやらよくわからなかったのですが、非常に工夫されているようでした。出演者の熱演もあって、子供達がどんどん引き込まれ、夢中になっていくのが感じられました。全てを劇中で見せて説明してしまうのではなく、紙芝居・絵本のように次々とシーンを見せて、そのシーンの間にあったであろう出来事を想像させているようにも見えました。

 全く出し物が異なる夜の部の一般公演も見ましたが、なぜだか、子供達だけに向けて実施されている(と思われる)午前の部の公演の方が記憶に残っています。このような劇を見ることができるプラハの子供達は恵まれているのでしょう。

 機会があれば、是非もう一度、訪ねてみたいと思っています。

日経新聞 法務インサイド

 本日の日本経済新聞朝刊「法務インサイド」のコーナーで、鳩山法相と第2東京弁護士会の久保利弁護士が法曹人口問題などについて対談を行っています。

 詳しくは日経新聞をお読み頂くとして、私個人の感想を言わせて頂くと、「久保利弁護士の御主張の根拠はいったい何なのか教えて頂きたい」というものです。

 久保利弁護士は、鳩山法相が「基礎、基本を全く知らない人がいると司法研修所の人が驚いています。基本がなくては活躍もできないと思いますよ。」と質の低下について危惧した発言をされたのに対し、「一定のレベルは必要ですが(中略)法律学の知識だけでは良い法曹にはなれません。研修所を出てからのトレーニングで伸びていくわけです。」と若干かみ合わない反論をされています。

 鳩山法相は、法律学の知識だけが必要だとは述べていません。いま、現に基礎・基本が解っていない修習生が出現するほど質が落ち始めていると主張しているのです。

 また、久保利弁護士の言われるとおり研修所を出てからのトレーニングで伸びるとしても、現在司法修習生の弁護士事務所への就職難は、非常に深刻です。先輩弁護士に付いて、トレーニングを受ける機会すら保証されない新人弁護士が多数出現する可能性が高いのが現状でしょう。この危険を久保利弁護士はどうお考えなのでしょうか。久保利弁護士がきちんと教育をされるおつもりなのでしょうか。

 更に言えば、久保利弁護士はこれまで、ご自身で採用されてきた弁護士を教育されてきたのでしょうが、それは今までの司法試験を突破した弁護士であり、基礎・基本にあまり問題が出ていない弁護士であったと思われます。もしその次に久保利弁護士が採用した弁護士が基礎・基本がきちんとできていなかった場合、久保利弁護士といえども、きちんと教育できるかどうかは未知数でしょう。

 久保利弁護士の御主張どおり今後も弁護士の数を増やしていけば、、基礎・基本が解っていない弁護士が先輩弁護士からトレーニングを受けることなく(久保利弁護士の御主張によれば「一人前の法曹として伸びる機会もなく」、ということになるのでしょうね)、依頼者の事件を実際に処理しなければならなくなる場合が明らかに生じます。そのような危険な行為を放置しようと言うのでしょうか。

 また久保利弁護士は、弁護士の数について、「完全に不足。弁護士は2万5千人しかいません。足りているというのは全く目が曇っています。」とまで御主張されます。

 それでは、なぜ、新人弁護士の就職難がここまで深刻なのでしょうか。弁護士が不足なのであればどこの事務所でも新人弁護士が欲しくてたまらないはずです。それに、あれほど過払バブルといわれ、過払い金返還訴訟が激増しているといわれていながら、司法統計によれば、訴訟の数が減少傾向にあることは何故なのでしょうか。 司法統計が誤っているのでしょうか。

 私には久保利弁護士の御主張の根拠がどうしても理解できません。

 さらに、久保利弁護士は「戦前、陪審裁判をやっていました。今の日本人にできないのなら、劣化しているということです。」とも述べておられます。

 確かに戦前である1923年に陪審法が制定され、陪審制度が導入されたた事実はありますが、辞退者が相次ぎ、第二次大戦中に停止されています。

 久保利弁護士の御主張は、誤りではないでしょうが、陪審裁判が刑事事件一般にあまねく行われていたかのような印象を与える点でミスリーディングな発言だと思います。

 大きな影響を与えるマスコミでの発言ですから、紙面の都合もあるのでしょうが、もう少し根拠をわかりやすく、また誤解を招きにくい表現で説明して頂きたかったと思います。