ベネチアの夜

 ベネチアは、深夜のほうが、素顔に近い。

 4~5回しかベネチアに行った経験がない若輩者のうえに、ここ10年ほどは人の多さに嫌気がさしてしまい、行ってもいないくせに、私は生意気にも、勝手にそう思い込んでいる。

 ご存じの通り、ベネチアは世界的観光都市だから、昼間の混雑は相当なものだ。ヴァポレット(水上バス)にあふれんばかりに観光客が乗っていることもあるし、土産物店などが集中している地区では、すれ違うのもやっと、ということもある。

 しかし、私が何度か行っていた頃のベネチアでは、夜の飲食店が店を閉めた後の深夜は、人通りも少なくなり、少しだけ静かな時間が戻っていた、と記憶している。

 大体、どこの観光都市でも道路が近くを通っていることが多く、人通りがほとんどなくなった深夜でも、遠くからごぉーっという、自動車の走る低い響きが聞こえてくるところがほとんどだ。私は京都に住んでいるが、京都だって、この音から無縁ではいられない。

 ところが、ベネチアにはその響きがない。深夜で運行本数が減ったヴァポレットが響かせるディーゼル機関の音がときおり遠くで聞こえるくらいなのである。
 自動車が入れない街だから当然なのだが、そこが、まず、かなり素敵に感じられる。

 それに加えて、静かな通りを、ゆっくり歩いていると、ちゃぷちゃぷ、とか、ぴちゃぴちゃ、という、運河の波が、岸を優しくなでているような音が聞こえてくる。不思議なことに、急いだり、普通に歩いているときにはその音は聞こえず、ゆっくり歩いているときに限って、その音に気づくことができるようにも感じられる。

 どういうわけか、このような水の音を聞くと、不思議と気持ちがなだらかに、穏やかになっていくような気がする。

 おそらくこの町で眠っている人は、特に気にもしていない音かもしれないが、街の本質的属性としてこの音が、住民やこの町を訪れる観光客が眠っているうちに、ひそやかに彼らの無意識の中に深い影響を与えていくように、私には感じられたりするのだ。

 だから、深夜のほうが、街としての素顔に近いのではないか、と感じたりするのだろう。

 もちろん、治安のいい日本と違ってイタリアだし、いくら当局が威信をかけて警備に力を入れているからといっても、強盗が出ない保証もない(聞いた話では、暗殺者通り~アサシンストリートという名前の通りもあるとか・・)。したがって、あまりお勧めはしないのだが、やはりベネチアの深夜の散歩は魅力的だという思いが私には強い。

 機会があれば、是非再訪してみたい都市のひとつである。

法科大学院等特別委員会での意見

文科省中教審の法科大学院等特別委員会は、私の見る限り、司法制度改革の目的よりも、手段であったはずの法科大学院制度の維持存続に汲々としている印象がある。

 プロセスによる教育のどこが優れているのかも明らかにせず、司法試験合格率で彼らからすればプロセスによる教育を経ていない予備試験組に惨敗し続けながらも、学者の先生方は何の根拠も示すことなく、「プロセスによる教育」というマジックワードを振り回し続けている。

 議事録についても、学者の現実を見ない、偏った法科大学院ありきの意見ばかりが多く、腹が立つので最近読んでいなかった。

 しかしふと思い立って少し近時の議事録を見てみると、多くの学者委員が、本来の目的を見失い、法科大学院維持存続ばかり考えた発言を繰り返す中、弁護士の酒井圭委員は問題の本質に迫る、なかなか鋭い提案をなさっているときがあることに気づいた。
 しかし、残念ながら、結局多くの学者委員に、はいはいそんな意見もございますな・・・という感じでスルーされている印象が強い。

 また、最近、専門委員に加わった、弁護士菊間千乃委員も令和元年9月10日の第94回特別委員会で、「(法科大学院における)法学未修者教育の充実」の議題について、未修者を切り離す意見もあるとの報告に対し、面白いことを述べているので一部引用する(着色は坂野による)。

(引用ここから)
【菊間委員】 菊間です。私は未修者で社会人で4年コースの夜間のロースクールに行った経験からお話しさせていただきますけれども,未修者といっても社会人と,あと仕事をしないで未修の人とでは全く違うので,そこをまず分けて考えなければいけないかと思っています。私も社会人から弁護士になったので,弁護士になってから本当にたくさんの社会人の方から法律家になりたいのだという御相談は受けています。ただ,皆さんロースクールには行っていません。私がいた頃よりも夜間が減っているということがあるのと,今こういう現状だと,仕事を辞めてロースクールに,私が行った2期生の頃は仕事を辞めてロースクールに入る人が多かったのですが,今は非常にそれは危険だということで,働きながらとなるとロースクールは難しいので予備試験を私も勧めていますし,予備試験の方に社会人の方は今受かっている。その社会人の方もロースクールの中に取り込んでいきたいということであれば,大きく考え直さないといけないのではないかと。今の状況で社会人がロースクールにはまず来ないのではないのかという気がしています。
学習の未修者のことを考えた場合もですけれども,例えば私も加賀先生と同じ御意見で,既修者との切離しというのは違うのではないかと思います。自分の経験からいっても,先生方は未修者からするとできない人の気持ちが分かっていないというか,何が分からないのかが分かってくれないのですね,先生方が。私も法学部出身ですけれども,ここで先生方にこんなことを言うのも何ですが,大学には全く行っていなかったので,本当に何も分からないままロースクールに入ってしまったので,一からだったのですね。その時に何が一番役に立ったかというと,既修者の人に勉強の仕方を教わったことですよ。既修者の方はどう勉強したら物事が分かるかとか,どういうノートの取り方を取ったらいいかとか,どう論文を書いたらいいかとか,今まで自分達がいっぱい悩んで考えてきたことを未修者の人に教えてくださった。

(後略・引用ここまで)

 つまり菊間委員は、大宮法科大学院の卒業生でありながら、自らの体験を踏まえても、後進の社会人法曹志願者には、法科大学院ではなく予備試験を勧めているのだ。法科大学院の先生方は、未修者にとって、何が分からないのかという根本問題すら理解してくれなかった、勉強の仕方、ノートの取り方、論文の書き方など大事なことは法科大学院教員ではなく、既修者に教わったとも述べている。

 このような現実が指摘されていることについて、文科省・中教審・法科大学院の教員は、恥ずかしいと思うべきだ。

 確かに、未修者の教育には教員の多大な労力と、未修者自身の多大な努力が必要である。法科大学院制度導入の当初、えらい学者の先生達が、1年もあれば既修者に追いつくだけの力を身につけさせてやれると自らの教育能力を過信したため、法科大学院では1年間で既修者に追いつくという無茶苦茶な制度設計がなされた。
 未修者を切り離す制度を考えるのであれば、自分たちが自らの教育能力を過信して制度設計をしてしまったことへの反省がまず最初に必要だと思われる。しかし、残念ながら、私が読む限り議事録から学者委員にはそのような反省の動向はうかがえない。

 今回の未修者を切り離すという問題提起の中には、おそらく、既修者とは別の未修者向けの教育が必要だからという建前があるのだろうが、その裏には、既修者のみの法科大学院にして司法試験合格率を上げたいという、自分たちの教育能力の欠如を棚に上げた野望が潜んでいるように感じられてならない。

 話は少しずれてしまうが、法科大学院側(学者委員)は、現実を見ていないだけでなく、菊間委員が現状に即して、社会人法曹志願者に対して勧めている予備試験を敵視し、プロセスを経ていないとか、本来の趣旨と異なるなどと批判することにより制限しようと躍起になっている。

 そもそも、予備試験を通じてでも、多様なバックグラウンドを持つ優秀な法曹が生み出されるのであれば、何ら問題はないはずだ。

 仮に学者委員が言うように、プロセスを経ない予備試験ルートに問題があるというのなら、すでに予備試験ルートでの法曹も相当数存在するのだから、彼らを調査し予備試験ルートの法曹に何らかの問題があることを立証する必要があるし、それは容易に可能なはずだ。

 ところが現実には、大手法律事務所が予備試験ルートの司法試験合格者を就職において長年にわたって優遇し続けているし、予備試験ルートの司法試験合格者も多数、裁判官や検察官に任命されていることから、予備試験ルートの司法試験合格者は問題があるどころか、むしろ見どころがあると実務界では思われているとみて間違いあるまい。

 だとすれば、予備試験ルートを制限する理由は存在しないということになるはずだ。

 結局、未修者を切り離し、予備試験を制限しようとする法科大学院等特別委員会は、多様なバックグラウンドを持つ優秀な法曹を生み出すという司法制度改革の目的を達成することを目標にしているのではなく、ひとえに法科大学院制度という手段を維持することが最優先事項にしているといわざるをえないだろう。

 さて、菊間委員の発言を聞いた学者先生方は、どう反応していくのか。

 今まで通り、現実から目を背け、プロセスによる教育というマジックワードにすがって、それを振り回し続けるのだろうか。もしそうなら、そのような人間を有識者として専門委員に任命した文科省の見識も疑わざるを得なくなるだろう。

 酒井委員や菊間委員が現実に即した発言を今後も続けた場合、次回の委員編成で再任されるのかも要注目だ。

喧嘩はいつでもできるもの

 私が弁護士になった頃と比べての実感だが、最近は、内容証明郵便や、訴訟での準備書面などでやたら攻撃的な書面を書いてきたり、電話での話し合いの際に極めて高圧的な態度をとる弁護士さんが目立つ気がする。

 意味もなく高圧的な態度で相手方に接することは、とくに弁護士が相手方代理人として就任した場合は、あまり良い結果につながらないように思われる。

 ある事件で、不法行為的な迷惑行為をしてしまった加害者側に対し、被害者側弁護士が極めて高圧的な態度をとってきたことがあった。
 私は加害者側からの依頼を受けていた。
 依頼者から聞き取った話と録音などの事件の証拠等からみれば、仮に訴訟提起されても相手方からの不法行為の立証は極めて困難だろうと考えられる案件だった。

 私は、依頼者の話が事実であれば、訴訟になっても恐らく負ける可能性は低いことを示したうえで、依頼者と協議の結果、それでも相手に迷惑をかけたことは事実なのだから相応の賠償を考えよう、という方向性で一致し交渉を始めた。

 ところが、相手方弁護士(最初の弁護士は解任され、経験の浅い弁護士が次に就いた)が何ら証拠に基づかず、極めて高圧的かつ首尾一貫しない書面をいくつも送り付けてきた。
 私は、遠回しに相手方弁護士の主張の問題点を指摘して、そのような態度に出るべきではないことをやんわりと諭した(「○○先生の△△というご主張は、~~という証拠に鑑み、事実と相違した、いささか勇み足のご主張であり、相当ではないと思料いたします。」程度の書面)が、効果はなく、例えていうなら「おまえ、被害者と弁護士様に向かって何言うとるんじゃ」と言わんばかりの書面が続いて届くことになった。

 そのような失礼な書面を連発されたことが主な原因で、当方の依頼者が話し合いをすることに最終的に賛意を示さなくなってしまった。
 したがって、相応の金額での和解が可能だったにも関わらず、結局和解はできなくなってしまった。そして、私の見立て通り不法行為責任を追及する訴訟も提起されてこなかった。
 結局、余計なことを弁護士がしたため、相手方は相応の賠償を受けそびれたのである。

 おそらく、相手方弁護士は、自分の依頼者が被害者なのだから、それを前面に押し出せば有利になると単純に考えていたのではないだろうか。そして、訴訟しても勝てると安易に思いこんでいたか、被害に関する証拠の精査を怠って訴訟になった場合のことまで考えが及んでいなかったか、のいずれかではないかと思われる。
 残念なことに、そのような高圧的な書面を書く弁護士のほうが、依頼者が「よくぞ言ってくださった!」と胸のすく思いがするためなのか、交渉段階での依頼者受けは良かったりするのである。

 確かに弁護士も客商売だから、依頼者受けも大事なのだが、私は、紛争解決のお手伝いをするのが弁護士本来の仕事であろうと考えている。

 訴訟を起こせば絶対に勝訴でき、しかも回収が絶対に確実であるというような特殊な状況があるなら別かもしれないが、そうでない場合、やみくもに高圧的な態度に出て、相手方をぶん殴っておけばいいというものではない。

 紛争の相手方だって人間だ。

 人間は感情のある生き物だ。

 感情をさんざん逆なでされた挙句に、和解したいので譲歩してくださいといっても到底応じてもらえまい。

 私だって、あまりに高圧的かつ依頼者に対して無礼な書面が来た場合には、依頼者の意向を確認の上、同様の内容で打ち返すことはあるにはある。しかし、自分の方から、積極的に高圧的な行動をとることはしないように心掛けている。

 物事には、喧嘩以外の解決方法も存在し得るのだ。

 喧嘩はいつでもできる。

 しかし、一度喧嘩を売ってしまえば、他の解決の道を、極めて狭くしてしまう。

 このような簡単なことに気づけない弁護士さんがいるのは残念だ。

やはり司法試験は簡単になっている。

 司法試験が、受験者数の減少、受験者の総体的なレベル低下により選抜能力を失いつつあるのではないかという危惧を以前ブログにも書いたが、その危惧は当たっていたようだ。

 法務省に掲載されている平成30年8月3日司法試験委員会決定に基づく、「司法試験の方式・在り方について」と題する文書には、次のように書かれている。

 短答式試験は,裁判官,検察官又は弁護士となろうとする者に必要な専門的な法律知識及び法的な推論の能力を有するかどうかを判定することを目的とするものであるが,その出題に当たっては,法科大学院における教育内容を十分に踏まえた上,基本的事項に関する内容を中心とし,過度に複雑な形式による出題は行わない。

 たぶん誰も、本当のことを直接言わないだろうから私が言ってやるが、司法試験委員会としては、本音としては、次のように言いたいのだろう。

 本来法曹(裁判官・検察官・弁護士)になろうとする者に必要とされる、専門的な法律知識や法的推論能力(それに私見であるが、事務処理能力も必要である)を判定できるだけの、しっかりとした質と量の短答式試験問題を司法試験で出題するべきだと司法試験委員会は考えている。何故なら司法試験は、法曹になろうとする者に必要な学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする国家試験である、と法律上明記されているからだ(司法試験法1条1項)。
 しかし、法科大学院経由の受験生全体の実力から推察される、法科大学院での教育内容を踏まえれば、受験生が法科大学院で身につけてきた実力が十分だとはとてもいえない状況にある。
 仮に、司法試験委員会が、法曹に通常必要な法律知識や法的推論能力を試そうと考えて、きちんとしたレベルの短答式試験を出題すれば、短答式試験で足を切られてしまい、現状の合格者数すら確保できなくなる。
 そこでやむなく、司法試験のレベルを落として、基本的事項に関する内容を中心に出題せざるを得ないのであり、本来法曹の資質を見るために必要と思われる複雑な形式による出題ができなくなっている。

 おそらくこういうことだろう。

 ちなみに、基礎的な問題に限定されているはずの、令和元年度の短答式試験は、175点満点で108点以上が合格(但し1科目でも40%以下の得点である場合は不合格)とされている。受験生全体の平均点は119.3点だから、受験生の平均点を10点以上、下回っていても短答式試験には合格できるというザル試験になっている。

 このようなザル試験であるがゆえに、予備試験ルート司法試験受験生の短答式試験合格率は令和元年度で約99%となっている。これに比べ同年度の法科大学院ルートの司法試験受験生の短答式試験合格率は約71%に過ぎない。

 予備試験考査委員が、法科大学院卒業者と同等の実力を持っている、裏を返せば、法科大学院を卒業したならこれくらいの実力を持っていなくてはならない、と判断したレベルにある予備試験合格者が99%合格する試験で、法科大学院ルート受験生は3割も落第するのである。

 そして、志願者が激減しているにもかかわらず合格者を1500人程度に維持しているため、短答式試験に合格した受験生のうち約半数が最終合格するのだ。

 私は思うのだ。

 法科大学院卒業生の実力が全体的に見て不足だからといって、司法試験を簡単にしようというのは、目的と手段が完全に入れ替わってしまっているのではないかと。かつて大学教員たちが、司法試験に合格するだけの実力くらい3年で身につけてみせると豪語して導入された法科大学院なのだから、本来であれば法科大学院の側から、司法試験を簡単にしないでくれ、というのが筋だろう。

 司法試験を法科大学院のレベルに合わせるべきだ(簡単に合格できるようにしてくれ)という、一部学者の主張は、自らの教育能力が乏しいことを自認する、極めて恥知らずな主張だと知るべきだ。

 法科大学院に意味(乃至は価値)を持たせるために、司法試験を簡単にすれば、実力不足の弁護士があふれ、結局国民の皆様が困ることになる。司法改革はそのような社会を目指したわけではない。

 だいたい、2004年に開校してから、おおよそ20年近く経っているのに、未だに教育内容の改革を検討し続けなければならないようなポンコツな制度を、どうして高額の税金を投じて維持しなくてはならないのか。

 本当に世の中わからないことが多いものだ。

思い違いをしていたこと

 つい最近まで、何となくだが、思い違いしていたことがある。

 それは進化についてのことだ。

 例えば、どうしてキリンの首は長くなったのか?と聞かれたときに、私は、「キリンは、高い木に茂った葉を食べるために長い首に進化した」、とつい考えてしまっていた。確か、テレビの動物番組でも、「○○という動物はこのような苛酷な環境に適応するよう進化してきました」等とナレーションが入ったりするので、つい、生き物が環境に適応するよう進化してきたと思い込んでいたのだ。

 実は違うようだ。

 考えてみれば当たり前のことだが、キリンが「首が長くなればいいなぁ、首さえ長くなれば高いところにある葉っぱが食えるのになぁ」、などと思って、何世代にもわたって進化の方向性を決定づけ、自らの子孫について次第に首を長くしていくことができたはずがない。
 「この苛酷な環境に耐えられれば天敵がいないのに」と、ある動物が考えて、その苛酷な環境に耐えられるよう進化していったはずもない。

 つまり、キリンの例で言えば、遺伝子がコピーミスすることによって生じる突然変異の結果、首が長くない両親からたまたま首が長いタイプのキリンが生まれ、その環境で首が長い個体がたまたま生き残りやすかったため、生存競争のなかで首の長いタイプが多く生き残り、何世代も子孫を残していく過程で、首の短いタイプは消えていっただけなのだ。

 言ってしまえば実も蓋もないのだが、全ては偶然の遺伝子のコピーミスから生じ、結果的にその突然変異の特徴を持つ個体が、その突然変異が生存に有利に働く環境下にいたため、たまたま生き残り、その特徴を維持・発展する結果になった動物を、後から見て「進化してきた」と呼んでいるだけなのだ。

 つまり、進化とは、徹頭徹尾偶然の産物であり、徹頭徹尾結果論ということになるのだろう。

 確かに遺伝子のミスコピーが生じないのであれば、生命も産まれなかったかもしれないし、仮に生まれたとしても、遺伝子のミスコピーが生じない以上、ずっと同じ原始的生命体のままだっただろう。

 そう考えると気の遠くなるくらいの遺伝子のコピーミスによる、生命の試行錯誤?の上に、今の生物たちがいるということになる。

 例えば犬などは、人間がある特徴が顕著な犬を人為的に交配させるなど、少し手を加えたりしたため、もともとオオカミだったはずの犬が、今や、オオカミとは似ても似つかぬ姿になっていたりする犬種も存在する。このように少し手を入れるだけで随分と違った形質を有する生物が生じるのだから、遺伝子のコピーミスによる生命の試行錯誤は、単なるコピーミスで片付けられないほどダイナミックなものなのかもしれない。

 命というものの、不思議を感じずにはいられない。

 このように、理屈の上ではおそらく、進化はあくまで結果論ということになるのだろうが、人間に関しては、私は、少し違うような気もしないではない。

 日本人の体型は、大きく変化し欧米化していると聞いたことがある。私の見る限りだが、顔立ちも(整形や化粧といった要素もあるだろうが)かなり欧米化する傾向にあるようにも思われる。

 仮に顔立ちの欧米化が認められるとしての話になるのだが、確かに体型変化には、栄養状態の変化や食べ物の欧米化で説明もつくだろう。しかし、それだけでは顔立ちの欧米化は説明できないように思われる。

 女性の美しさに対する強い思いなどを見ていると、結果論だけの進化ではなく、生物の強い思いによる変化も(進化かどうかは別にして)あったりするのではないか、と想像してみたりするのだが、想像が過ぎるだろうか?

今からでも間に合う(かもしれない)司法試験サプリ(10)~試験全般について3

※気合いだってバカにはできない

 試験が近づくと誰だって、焦るものだ。
 しかし、焦る必要はない。短答式試験に満点を取る人間が、まずいないことからも明らかなように、完璧に準備ができている受験生などいないのだ。
 焦って浮足立ち、空回りした挙句に、本番で実力を発揮できないほうが、実は問題が大きい。

 試験前に気合いの入る音楽を聴くこともよく使われる手だ。それだけでなく私は、試験前日には、夕食はまんが定食屋(漫画がたくさん置いてある定食屋さん)に出かけ、気合いの入るスポコン漫画等の一番クライマックスのところを読み、気合いを入れたこともある。一歩ずつ「合格、合格・・・」と念じながらジョギングしていたこともある。

 気持ちの面で言うなら、気合いだってバカにはできない。気合いが入っていれば集中力が増すこともあるし、なにより途中でくじけそうになった時に、支えてくれることもあるのだ。その支えによって、あきらめずに1点、2点を拾うことができれば、それが積もれば大きな差になりうる。

 もちろん勉強不足を補うことはできないが、気合いが入っているほうが何かと前向きになれることは事実だ。だとすれば、びくびくして試験に臨むよりも最初っから気合いを入れて臨んだほうがいいに決まっているではないか。
 特に複数回受験をしている方は、経験からくる慣れから、気合いが入っているようでも入りきれていない場合があるので、要注意だ。

※睡眠不足でも大して影響しないこともある

 どうしても緊張して眠れない人もいるだろう。しかし、意外にも睡眠不足は極度の緊張を強いられる司法試験において、あまり影響しないことが多いように思われる。その証拠に、試験中に睡眠不足で寝てしまった人の話を、私は伝聞でも聞いたことがない。逆に、私の受験時代でも試験前日の夜から、試験終了まで全く眠れずに合格した人の話はいくつも聞いたことがある。

 だから、睡眠不足を試験失敗の言い訳にしないことだ。特に試験期間中は、絶対に、「自分は睡眠不足で頭が冴えていないから駄目だ・・・」などとマイナスの自己暗示をかけてはならない。

 とはいえ、体も頭脳も疲弊する試験なので、試験期間中に休ませることは必要だ。

 私の経験から言えば、眠れなくとも、ベッド(布団)に入って、目を閉じているだけで随分と回復できるものなのである。自分が好きな、落ち着く音楽を聴くことも効果的だろう。
 もちろん眠れるに越したことはないが、たとえ眠れなくても、十分戦えることが多いものなのだ。

※試験期間中は一人のほうがいい

 試験会場などで、友人などに会うこともあるだろうが、私の経験から言えば、あいさつ程度にとどめ、話はしないほうがいい。話をすれば、どうしても試験内容の話になってしまうが、試験の結果も出ていないのに、終わってしまった試験科目の話をすることほど意味のない行動はない。仮に話してみて、書いた論点が一致していても書き方によって評価はまるで変わるし、もし書いた論点が違っていたならその後の試験に大きく影響しかねない。

 百害あって一利なしと思ったほうが良いくらいだ。

 また、昼食の待ち合わせなどもしないほうが良い。もし相手が遅れたら自分の予定が狂うし、自分が遅れたら相手に迷惑をかけるのではないかといらぬ心配をしなくてはならなくなる。

 受験の友達であれば、お互いにとってとても大事な試験であることはわかっているはずだから、試験期間中に話をしなくても、試験が終わってから嫌になるほど話しせばよいし、それくらいは理解してもらえるはずだ。
 

※おわりに

 私は、かつて何度も総合A判定(1000番以内)で、さらには前述したように0.03点差で論文試験を落とされるなど、旧司法試験には相当苦労させられました。円形脱毛症にも3~4回なったり、健康を害したことさえありました。

 長かった受験生時代に、気づいた点のうち、ひょっとしたら試験直前に気づいていれば、ずいぶん答案が変えられたかもしれないと思ういくつかの点について、雑駁ながら書かせていただきました。

 もちろん勉強不足をカバーするような特効薬ではありません。しかし、勉強しているはずなのに成績に反映されず行き詰っている人へのヒント、飲まないよりましのサプリメント程度の効果はあるかもしれません。

 読んでくださった方の、司法試験での健闘をお祈りしております。

(この項終わり)

今からでも間に合う(かもしれない)司法試験サプリ(9)~試験全般について2

※逃げるな

 妥当な解決を目指す箇所で触れたことにも関連するが、解答しているときに、通説・判例の理屈で突き詰めていけば、結果的に、あまりに当事者の衡平を害する等、不都合が生じてくるような場面に出くわすことがある。

 また、ある論点だけ少数説をとれば、面倒くさい論点をすっ飛ばせるような場面も生じることがある。

 あくまで私の経験からすればということになるが、結論的には、このような場合には、「逃げてはならない」。

 正々堂々と通説・判例でおしていき、生じてしまう不都合には、別途知恵を絞ってなんとか手当を考えるほうが評価が高いはずだ。不都合を無視したり、少数説に日和って面倒くさい論点を飛ばしたりする行動は、はっきり言ってしまえば、「逃げ」だ。

 前も述べたが、採点者は当代一流の学者であり実務家である。困ったときに、踏ん張って何とか妥当な結論を導こうと努力した形跡のある受験生と、その不都合から逃げてしまった受験生とを比較すれば、間違いなく前者が評価されるだろう。

 実務家は、場合によっては法廷においてたった一人で、相手の弁護士と論争しなければならない場合もある。そのような場合に、ちょっとした不都合にびびって、すぐに逃げたり日和ったりするような受験生を、同じ法曹の卵として法曹界に迎えたいと、採点者が思うはずがないだろう。

 とはいえ、論文試験を受験している際には、どうしても弱気になりそうな時が来る。その時は、自分がどういう法曹になりたいのかをもう一度思い出し、勇気を奮って逃げずに戦ってもらいたい。

※最後まであきらめるな

 試験である以上、完璧な解答を書ける受験生などいないと考えるべきだ。隣の受験生が試験開始後、すぐに答案を書き始めてもあせらないことだ。どうせきちんと答案構成できずに泡食って書いているだけだろうから、ろくな答案になりはしない、と考えておくほうが楽だ。

 今の司法試験は、短答に合格してさえいれば殆ど50%近くは合格できる試験になっているので、とにかく最後まであきらめないことである。

 あきらめるのは試験終了後だって、合格発表の後だって、できる。

 たとえあなたの出来が悪くても、みんなの出来も悪ければ、その中で少しでもあがいて法的思考力を示していた方が勝つ。

 でかいミス一つやらかせば、その年の受験が終わってしまった旧司法試験の時代と違って、今はでかいミスの一つや二つあったところで合格できてしまう時代なのだから、勝負は、なおさら下駄をはくまでわからないのだ。

 最後の科目で筆記用具を置くまで、絶対にあきらめてはならない。

 試験中のミス程度で、あきらめの気持ちを抱くような実務家に、だれが、自分の人生の重大事を任せてくれるというのだ。

 実務家を目指す以上、絶対にあきらめてはならない。

(続く)

今からでも間に合う(かもしれない)司法試験サプリ(8)~試験全般について1

※背伸びするな

 試験では、つい、自分を実力以上に見せたくなるものだが、背伸びはすぐにばれるものと思っておいたほうがよい。実力以上の背伸びは、必ずどこかに無理が出るものだからだ。特に解答に関係のない論点まで書きたくなる思いは、(本当に実力がない場合もあるだろうが)実力以上に自分を飾ろうとする気持ちが強い場合に生じやすいものだ。

 採点者は当代一流の学者であり実務家なのだ。たかが受験生の背伸びなど、どう隠してみても、先刻お見通しである。

 無理して背伸びするよりも、ありのままの自分で勝負したほうが、間違いなく冷静に戦いやすいし、その後のあなたにとっても意味があるように思う。

 万が一、背伸び作戦が功を奏して、勉強不足のまま合格して資格を取得できたとしても、勉強不足が原因で大きな弁護過誤を起こし、せっかく手に入れた資格を懲戒処分によって失うかもしれないのだ。その場合に傷つくのは、自分だけではすまない。あなたに依頼した依頼者も大きな被害を受けてしまうのだ。

 先だって、若い弁護士さんが、法定果実と天然果実の区別がついていない訴状を出してきたため、第一回口頭弁論期日に訂正したらどうかと条文まで示して指摘したのに、こちらの指摘した意味すら理解してもらえなかった、という悲しい経験をした。
 通常の依頼者は法律的にはど素人だから、正直言えば、書面の良し悪しなど分かりはしない。勉強不足の弁護士の書いた適当な書面でも、弁護士先生が書かれた書面だから優れたものに違いないと誤解しているだろう。
 依頼者の誤解に乗じて勉強不足の書面を提出して平気な顔をしている弁護士になるくらいなら、もう一年しっかり勉強してもらったほうが、よっぽど世のため、人のため、自分のためだ。

 どうやら愚痴っぽくなってしまったが、結論的には、

 「私の持てる知識と能力を総動員して妥当な解決を目指しました。その結果がこの答案です。私はこれ以上でもこれ以下でもありません。この答案で実力不足と仰られるのであれば、私の勉強不足なので仕方ありません。ただ私は、良き法曹になろうと強く願っており、努力してきました。もし合格させていただいた暁には、きっとさらに努力を重ね、良き法曹になり社会に貢献することをお約束します。」

 という気持ちで臨めれば、おおむね心構えとしてはベストに近いのではないだろうか。

※妥当な解決を目指せ

 最近の若い(年齢ではなく経験が浅いという意味)弁護士さんの書面を見ると、喧嘩上等!とばかりに、とにかく攻撃的な書面を書けばよいと勘違いしているような内容の書面が、実は少なくない。

 事案から見て、和解が一番いい場合も当然あるし、そのような場合には将来的にはお互い譲歩しあって解決する必要がある。したがって、妙に攻撃的な書面で相手方をぶんなぐってしまうことは、相手方の機嫌を当然損ねることにつながり、和解による解決に向けてはマイナスにしか働かない。

 弁護士は、紛争解決のお役に立つのが仕事なのに、喧嘩を吹っかけて、紛争拡大をしてしまってどうする!責任をお前が取れるのか?と相手の弁護士を怒鳴りつけたくなるときも、実はあったりする。

 私の愚痴はそれくらいにしておいて、法律家は紛争解決のお手伝いをするお仕事なのだから、目指すのは当然、できるだけ妥当な結論ということになる。

 これは、司法試験でも全く変わるところはない。

 特に、試験委員を務めるような一流の実務家は、無駄に紛争を大きくすることなく、スマートに解決・終了させる術に長けている方が多いと思われるので、ますます常識的に見て妥当な結論を示すことは大事だというべきだろう。

 非常識な結論で満足している受験生を、法曹の仲間として迎え入れたいと思う試験委員はまずいないだろうと思われるからだ。

※判例は思っているよりも大事

 これも採点実感でよく指摘されているところだが、判例への言及が少ない・誤っている等の問題がある。

 実務は、ほぼ判例で動いている面もあるので、採点者が考える判例の重要性は、受験生の意識と違って、相当高いものと思ってもらっていい。訴訟において判例と異なる学説を引用し、それがどれだけ有名な学者の有力説であったとしても、裁判所からあっさりと「独自の見解」として退けられる例は後を絶たない。

 司法試験でも、採点者はこいつは実務家の卵として適当か?を判断しようとしているのだから、答案に正確な判例の知識を織り込めるに越したことはない。

 ただしここでも、正確な判例の知識が求められていることに注意しなければならない。

 超重要基本判例について、答案に書いていない場合と、答案に書いているが誤っている場合とを比較すれば、おそらく後者のほうがダメージは大きい可能性はあるだろう。少なくとも、後者は、超重要基本判例についてすら誤って勉強していることが明かになってしまっているからである。

 判例の紹介については、重要判例について行うべきであることは間違いないのだが、正確な知識であるかを確認の上、よくよく吟味して行う必要がある。

(続く)

今からでも間に合う(かもしれない)司法試験サプリ(7)~短答式試験編

 ※とにかく過去問!

 短答式試験は、とにかく過去問の繰り返しに尽きる。予備校の予想問題集よりも過去問が重要である。予備校の予想問題集・模擬試験は、どうしても出題者のレベルが本試験に比べて異なるから、いくら本試験に似せようとしてもどこかが違うのだ。本試験に勝つためであれば、過去問演習が最も効果的な対策であることは言うまでもない。

 どの程度過去問を繰り返す必要があるかというと、最低でも過去10年以内の問題であれば、問題文を見た瞬間に、「答えはこの肢だ!」とわかるレベルまでの繰り返しが必要である。

 そのレベルまで私は過去問を繰り返して解いているが、どうしても得点が伸びないという方は、心の中でズルをしていないか確認をお勧めする。

 ズルというと失礼に当たるかもしれないが、過去問を解く際には、正答を選べただけではだめなのである。過去問のそれぞれの選択肢で問われている知識を確認しながら解く必要があるのだ。

 つまり、人間とは自尊心が高い反面、心に弱いところがあるもので、問題演習の際でも間違いたくないという意識がどうしても働くことが多い。特に試験直前期にはそうである。だから過去問を何回も回していると、見た瞬間に正解の肢が分かるので、その肢を選んで正解であることを確認して安心したがるものなのだ。

 しかし、そのような過去問演習は、何の意味もない。単に覚えている肢を選んで自己満足してしまっているだけなのだ。

 問題を見た瞬間に正答の肢が仮に5であると分かったとしても、いちいち、1の肢は判例に~という点で反しているから間違い、2の肢は条文の~~という文言に反するから間違い・・・・というように、面倒でも正しい肢も間違いの肢も、一つ一つの肢にきちんと頭の中で根拠を指摘して、正誤を判断し、過去問で問われている知識を確認しながら演習していかなくては意味がないのである。

 その作業を抜きに、問題を見た瞬間に覚えていた正答を選んでそれで安心するような過去問演習は、全く意味がないといってもいい。

 そもそも、過去問というものは、その問題を解ける受験生を合格させようとしている問題なのだから、過去10年間の過去問をきちんと解けるだけの知識を持ち、その知識をきちんと使える受験生を落とすわけがないのだ。

 あまり推奨しないが、どうしても過去問を解く時間を捻出できない人は、最後の手段として、過去問の問題と解答を読みふけるという方法もある。問題を解くことなく過去問で問われている知識を身につけるための方法だ。

※こんな方法も

 次にこれは私なりの方法であり、人によって異なるかもしれないが、組み合わせの選択肢を選ぶ際には、絶対に確実だと確信を持って言える知識を軸にするほうが正答率が高い場合が多いように思う。

 例えば、ア~オまでの選択肢のうち、正しい肢を二つの組み合わせを選ぶ問題があったとして、あなたの判断では次の通りだったとする。
 アは100%正しい。
 イが正しいとしても20%くらいだろう。
 ウは100%間違っている
 エは70%くらい正しいと思う。
 オは80%くらい正しいと思う。

 そして(ア、イ)を組み合わせた選択肢と(エ、オ)を組み合わせた選択肢で判断を迷ったとする。
 この場合、単純計算すれば、
 (ア、イ)は100+20=120
 (エ、オ)は70 +80=150
 となるので、心情的には、(エ、オ)の選択肢を選びたくなるものだが、私の場合はそこをぐっとこらえて(ア、イ)の選択肢を選ぶほうが正答率が高かった。

 結局この問題であなたは、アとウの選択肢以外は、確実な知識をもっていないということになる。それは裏を返せば、イ・エ・オいずれの選択肢とも、あやふやな知識しかないということだから、正確な知識がないという点では同じなのである。一応20~80%の範囲内で比較をしてはいるが、それとてもあやふやな知識の中で、どっちがましかを比べているに過ぎない。
 そうだとすれば、絶対に確実に正しいと断言できるアの肢を含む(ア、イ)の組み合わせを選ぶほうが、正答率が高くなる可能性があると言いうるのではないだろうか。

 これは、私なりの方法であるし、裏技的なものだから、あくまで参考までに、そんな考えもあるのか~、くらいで押さえておいたほうがいいかもしれない。

(続く)

今からでも間に合う(かもしれない)司法試験サプリ(5)~司法試験で問われているもの2の3

※出発は条文から

 日本は判例法の国ではなく、成文法の国である。だから、法的問題の解決を図ろうと考えた場合には、まず条文に依って解決を図ろうとすることになる。
 もちろん論文試験でも、問いに答えるための武器は法律の条文であり、条文がスタートであることは大前提だ。この条文の重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。特に憲法では条文からのスタートを忘れがちなので、十分注意する必要がある。

 出発は条文からという話はよく聞くが、どう出発してよいのかわからないという人もいるので簡単な例で一緒に考えてみたい。

 例えば、Pから土地の譲渡を受けたAと、その翌日にPから同じ土地の譲渡を受けたBがいるという典型的な不動産の二重譲渡の事例を考えてみる。

 この場合、Aが当該土地の所有権を、売主であるPに主張する際には登記が不要であるが、Bに主張するためには登記が必要だということくらいは、受験生であれば常識の範疇に属する知識だと思う。
 そのように言えるのは、AにとってBが民法177条の「第三者」に該当するといえるからである、ということも当然知っているだろう。

 とりあえずその知識は忘れてもらって、登記を経由せずにAがBに対して所有権に基づく返還(明渡)請求訴訟を行ったと仮定しよう。

 その訴訟の中で、AがBは民法177条の「第三者」に該当しない(だからBには、登記なしでAの所有権を対抗できるなど)と主張し、一方Bは自分が民法177条の「第三者」に該当する(だからAは登記を経由しないと所有権をBに対抗できない)、と主張して争っているとする。

 AもBも、民法177条の「第三者」について主張しあっているのだから、民法177条を見てみることになるのだが、実はそこには、「不動産に関する物権の得喪及び変更は・・・登記をしなければ第三者に対抗できない。」としか記載されていない。

 この条文の中に、不動産二重譲渡の場合には、後で譲渡を受けた者は前に譲渡を受けた者に対して、「第三者」に該当する、と書いてくれていれば話は簡単だ。
 しかし、どこまでの範囲の人間が「第三者」に当たるかについて、民法177条の条文上には、なんら明確な記載がなく、条文の記載だけからでは、だれが第三者に該当するのか明確になっていないのである。

 かといってこの場合、条文上明確でないから弁論の全趣旨からBは177条の「第三者」である、と裁判官が判決を書いてもAは納得しないだろうし反論や検証のしようもない。また、逆に、条文上明確でないから弁論の全趣旨からBは177条の「第三者」ではない、と判示されてもBは納得せず同様の問題が生じるはずである。何より、一つの条文に対して、このような場当たり的な判断しかできないのであれば、予測可能性が失われ法的安定性が極度に害されることになる。
 判例ではこう解釈されているから、という理由も考えられなくはないが、判例の事案と本件が全く同一という保証はないし、判例がどうしてそのような解釈をしたのか、すべての事案でそう解釈してよいかについてまで示さないと納得させることは難しいだろう。

 だいぶ長くはなったが、本問では、民法177条の「第三者」という条文の文言を解釈して、その意味するところを明らかにしておく必要性が出て来ているということは理解してもらえたと思う。

 この点、答案に、いきなり民法177条の「第三者」の意味は、判例では~~とされているから、と記載する人もいるようだが、これは単に判例の知識を引っ張ってきただけであって、なんら条文解釈になっていないことに気づくべきだ。
 したがって、(私は判例の指摘の重要性を否定するものではないが、)判例の解釈の結論だけを引っ張ってきて答案を作成しても、法律の解釈力を見ようとする司法試験では高い評価は得られない可能性があることに注意すべきである。

(条文解釈になっていない悪い記載例)
×× 本問のBは民法177条の「第三者」にあたる。したがって・・・・

☞まったく解釈を行っておらず、評価に値しない例である。但し、他の論点と比較して圧倒的に重要度が低い場合には許される場合もありうる(かもしれない)ことには注意。

× 判例では民法177条の「第三者」とは「登記の欠缺を主張するについて正当な利益を有する者」に限るとされている、本問のBは同一不動産上に所有権を取得した者であるから、同条の「第三者」にあたる・・・・。

☞判例の結論を引用しただけで、やはり条文の解釈を行っているとは言えない例である。但し、他の論点と比較して圧倒的に重要度が低い場合には許される場合もありうる(かもしれない)ことには注意。

 このように、条文から出発する際には、条文の文言が明確ではないことから問題になるパターンと、条文通りに適用すると不都合が生じるパターンなどいくつかのパターンはあるが、いずれも条文の文言(記載内容)から、問題(解釈の必要)が生じてくることは、ほぼ同じである。

 したがって、受験生としては、どうしてこの問題では、この条文の、この文言が解釈上問題となるのかについて、キチンと指摘してから条文の解釈を始める必要がある。

 このような指摘もせずに、いきなり条文解釈が始まると、採点者からすれば、どういう理由で、受験生がその条文の、その文言を解釈し始めたのかが明確にならない。
 その結果、採点者としては、「おいおい、いきなり条文解釈始めちゃったけど、なんで条文解釈する必要があるのかホンマに分かっているのか?」「覚えているだけと違うのか?」等の疑念がぬぐえなくなるのである。

 今の例の場合、Bの立場で答案に書くとすれば、
(あくまで参考例~これがベストというわけではありません)
 Aに登記が具備されていない本問の場合、本件不動産についてBがAからの返還請求を拒むためには、Aに登記がなければ本件不動産の所有権をBに対抗できないこと、すなわちAにとってBが民法177条の「第三者」に該当することを明らかにする必要がある。
 しかし、民法177条における「第三者」は、文言上特に限定をすることなく規定されており、「第三者」とはどのような範囲の者を指すのか(Bのような者まで含むのか)不明確であるため、問題となる。
 この点・・・・・(177条の第三者の解釈)→規範(判例・通説の規範でよい)
 これを本件についてみると・・・・(あてはめ・事実認定)
 したがって、・・・・(結論)

 という形が考えられる。

 身も蓋もない言い方をするが、主要論点における条文の解釈については、受験校などから論証集が出ているだろうから、本試験では、似たり寄ったりの論証があふれかえる可能性は高い。
 そうだとすれば、受験生としての腕の見せ所は、出題に対して、どうしてその条文の、その文言を解釈する必要があるのか、を端的に提示する問題提起の部分となる場面も考えられるだろう。

 今までの答練の答案などを見直して、どうしてその条文のその文言を解釈をする必要があるかについて明示できているのか、明示できていない場合どう明示すればよかったのか、等について検討することは結構意味があることだと思われる。

 さらに時間があれば、論証集について、どの条文のどの文言の解釈を行っているのかを確認しながら六法の該当部分に着色したうえで、その後、今度は六法の条文だけを見ながら着色した部分にはどのような論点がどういう理由で生じていたか、を言えるように練習していれば、試験場でも司法試験六法が相当強力な味方になってくれる。試験場で使える司法試験六法を利用しない手はない。

(続く)