我妻榮記念館訪問~その2

 記念館は、一見すると2階建ての古い民家である。建物の前には、自動車が4台ほど駐車できるスペースがある。

 入館料は無料であり、当然駐車料も無料である。

 私が記念館に着いたのは、開館時間13時の少し前である、12:50頃だった。既に玄関の扉が開いていたことから、「ごめんください」と声をかけてみると、女性の事務員のような方が出てこられて、「管理人は、もうすこしで来ますので、どうぞお上がりください」と会館時間前に入れて頂くことが出来た。

 履を下駄箱に入れて家(記念館)に上がると、女性の方は、茶の間のを通って、八畳ほどの床(とこ)のある上段の間に案内してくれ、「管理人が来るまで、よろしければ、御覧になってください」と言って、我妻先生の生涯や業績に関するビデオを見せてくれた。山形県郷土学習ビデオ教材として、山形テレビが制作した「法律学者 我妻榮」という番組で、テレビの左下に「鑑賞希望の方はお申し出ください。」と書かれた表示がある。

 もし興味を持って記念館を訪問されるかたがいるなら、このビデオを見せてもらった方が、より我妻先生を身近に感じることができるし、展示されている資料の貴重さも理解しやすいと思う。

(茶の間から上段の間を撮影。女性の方がビデオをつけようとしてくれている。来館者の記帳をするノートが机の上に置かれている。右側には、これまで発行された記念館だよりがラックに入れられていた。)

 ビデオ拝観途中に、管理人の手塚さんが来られた。簡単なご挨拶のあと、「ビデオが終わったらご案内しますね。」と言って下さる。

 わざわざ、管理人の方にご案内して頂けるとは思っていなかったので、これは、いつものことなのか、ラッキーなのか、訪問についてメールで問い合わせをしていたからなのか、ひょっとしたら竹田康夫さんが連絡して下さったのかもしれない等の思いが、一瞬浮かぶ。

 ビデオは非常に分かりやすい作りだったので、中高生でも我妻先生の凄さの大まかな点はつかめるのではないだろうか。

 ビデオが終わると、管理人の手塚さんが、「どうぞ、こちらへ」と、案内してくれた。

 まずは、資料を展示している土蔵の方へ向かう。

 分厚い扉が観音開きになった土蔵には、母屋から直接入ることができる。私の勝手なイメージでは、蔵は居住家屋と別棟で建っていることが多い。大学受験浪人時代、私が間借りしていた京都の古い町家の蔵も、小さな中庭の中に別棟で立っていたため、これは、記念館とするために別棟だった土蔵を母屋から直接行き来できるように改築したのではないかと推察する。(ちなみに、浪人時代に私の間借りしていた部屋は、エアコンはもちろん外につながる窓がなかったため、夏場の京都の酷暑はどうしようもないくらいきつかった。家主のおばあさんが台所で干物を焼くとその煙が立ちこめたし、隣の部屋を間借りしていた浪人生が、トイレに行ったり外出する際には、必ず私の借りた部屋を通らなくてはならず、プライバシーも0に近かった。)

 手塚さんの案内で、土蔵1階にはいる。

(土蔵1階展示室) 

 写真のとおり、天井は低い。中央に東大法学部部長時代に愛用された机がおかれている。東大法学部長とはいえ、簡素な机であり、もっと広い方が研究しやすかったのではないかと勝手に思ってしまう。

 机の上には、洋行時の手紙等の原本がファイルに入れられて展示されている。洋行時の状況等について、手塚さんが簡潔に、ときには面白く解説してくれるので、分かりやすい。

 硝子ケースには、著書とその原稿が並べて保管されている。日本民法界に大きな影響を与えた、民法講義の原稿も展示されている。フェリーの時間が迫っていなければもっとゆっくり見ることもできたと思うのだが、短時間で切り上げなければならなかったのが少し残念であった。

 除湿機は作動し硝子ケースに入っていたものの、それ以上の保管に費用を費やしている様子が窺えず、無造作に原稿の原本が置かれているように見えたので、これらの資料について電子データ化して保存されているのか、本来なら原本を厳重に管理して、レプリカで展示するべきではないのか、と少し不安に思った。

(続く)

 

我妻榮記念館訪問~その1

 もう、四半世紀近く前になるが、私は、司法試験受験時代、短答式試験の直前に一粒社から出版されていた我妻榮・有泉亨著、

「民法1 総則・物権法」(川井健 補訂)

「民法2 債権法」(水本浩 補訂)

(いわゆる「ダットサン民法」である。)

2冊を、一日半ほどで一気に通読して、試験直前の民法知識の整理をするのが常だった。

 まだ縦書きの本であったが、「通説の到達した最高水準を簡明に解説すること」を目的としており、小型ながらパワフルということから、ダットサンの愛称がつけられていて、短答試験直前の知識の整理には最適だった。

 著者の我妻 榮(わがつま・さかえ)先生は、日本民法界の巨星である。我妻先生が打ち立てた民法体系は、理論的に精緻であるだけでなく、結論が常識的であることもあって、受け入れやすく通説中の通説となることが極めて多かった記憶がある。

 司法試験合格後に、司法修習で訪れた全ての民事裁判官室に、我妻栄著「民法講義」(岩波書店刊)全巻が書棚におかれていたし、裁判官協議中に何か疑問点等が出た際に「我妻にはどう書いてある?」等と話題になっていたこと等からも、実務界にも多大な影響を与え続けていることは実感できた。

 ところが、ダットサン民法を出版していた一粒社が廃業してしまったことから、ダットサン民法はしばらく絶版になっており、私は残念に思っていた。

 その後、かつて一粒社に勤務されダットサン民法の担当をされていた竹田康夫さんのご尽力等もあり、勁草書房からダットサン民法が発刊されることになった。

 勁草書房に勤務されるようになった竹田康夫さんと、ふとしたことから、簡単ではあるが交流して頂けることがあり、竹田さんから我妻榮記念館が発行している「我妻榮記念館だより」の記事を頂いたのが、我妻榮記念館訪問のきっかけである。

http://www.yonezawa-yuuikai.org/introduction/pdf/wagatuma_dayori/wagatuma_dayori25.pdf

(続く)

我妻榮記念館は、山形県米沢市にある。

 

管理される方の都合もあるのだろう。常時開館されているわけではなく、月・木・金・日の13時から16時が開館時間となっている。ただ、それ以外の時間に見学を希望される人は事前にご連絡くださいとHPに記載があるので、開館日でなくても見学できる場合があるかもしれない。

我妻榮記念館のHPアドレスは

我妻栄記念館 (wagatumasakae.com)

である。

一枚の写真から~95

フランクフルトモーターショウの会場の外で展示されていたBMW製のパトカー。

現代の高性能化した自動車では、このようなパトカーでは取り締まれないだろう。

このパトカーが現役だった時代、事件現場にこれと同じ型のパトカーが青ランプを光らせて何台も急行している様子を見てみたかったと思わせる、可愛さがある。

一枚の写真から~94

イタリアの高級車ブランド、マセラッティのブース付近。

マセラッティの車についても、フェラーリと同様、一般客は展示ブースの車の至近距離まで入ることはできない様子だった。

招待客など、ブースに入れるお客をおもてなしする、レディ達。

ちょっと手持ち無沙汰のご様子。

一枚の写真から~93

同じく、ずいぶん前のフランクフルトモーターショウで。

フェラーリのブースでは、格好いいコンパニオンさんがいて、一般客が展示車に直接触れることは、させていない様子だった(自動車近くへの立入り自体を制限している感じ)。

当時、F1では皇帝と呼ばれた、ミヒャエル・シューマッハがフェラーリで大活躍していたはずで、ドイツでのフェラーリ人気も高かったのではないだろうか。

一枚の写真から~92

同じく、ずいぶん前のフランクフルトモーターショウで。

ダイハツコペンZ。

日本では軽自動車として発売されていたコペンだが、欧州向けにボディとエンジン排気量を大きくしたもの?と思われる。

ちなみにコペンは、この写真のように初期型が一番デザインとしてよくできていたように思う。

前から見ても後ろから見ても車が笑っているような、あのデザインは、今思いだしても秀逸。

このモーターショーでも、直接触れるゾーンのコペンには人だかりができていた。

一枚の写真から~91

ずいぶん前のフランクフルトモーターショウで。

当時BARホンダから、佐藤琢磨選手がF1に参戦していたはず。

鈴鹿サーキットにも応援に行った記憶がある。

一枚の写真から~90

ずいぶん前に、9月のシルバーウィークに出かけた際の写真。

ルフトハンザ機でフランクフルトでトランジット。インスブルックを目指す。

とにかくフランクフルト空港はデカすぎて、どこに行けば良いのかすぐには分からず困った。

ようやく辿り着いたところ、待っててくれたのは、かわいい飛行機。

一枚の写真から~89

レイキャビク(アイスランド)市内のチョルトニン湖

白鳥を含む多くの野鳥がいる。

市民の方々もパンくずなどを与えており、野鳥もさほど人間を怖がっていない。

私が訪れた際には、日本人の年配のご夫婦がきておられ、少しお話ができ、野鳥に与える餌を頂けた。

そのご夫婦は、お仕事の関係でヨーロッパに住んでおられたことから、年末年始に旅行に来られたのだそうだ。

当時は、アイスランドへの旅行はあまりメジャーではなかったこともあり、私が日本から来たと伝えると、「どうしてこんなところまで・・・?」と、かなり驚いておられた記憶がある。

あれから、15年以上経っているが、まだお元気でいらっしゃるのだろうか。

一枚の写真から~88

私が訪れたときのレイキャビクは曇り~雪の天気が多かった。

たしか、レイキャビクを離れる前日になってやっと晴れの天気に恵まれた。

曇りでもそれなりに風情はあったが、やはり晴れると、夕刻には泣けそうになるくらい美しい景色が見られることもある。