そんなにアメリカが良いのか?

 私が子供の頃ですから、30年以上前になると思いますが、そのころでもテレビ番組で「衝撃映像特集!」等の題名で、世界の事件映像を流していたものがあったように思います。

 その番組の中では、犯人が逃走し、パトカーが追跡するカーチェイスをヘリコプターで撮影した映像がよく流れており、それは大抵アメリカでの事件だったと記憶しています。

 私は子供心に、「アメリカでは、罪を犯しても、なんとか逃げ延びればラッキーだという人が多いのかもしれない。そんなの良くないのに。」と思った記憶があります。その頃の私の感覚では、交通違反をして現場をパトカーに現認され、サイレンを鳴らされた場合、多くの人は確かに違反してしまったということで、素直に停車する人がほとんどで、逃げ切れればラッキーだと思って逃走するような人は、現在のように多くはなかったように感じていました。

 しかし、昨今、アメリカの個人主義・成果主義・競争至上主義などがどんどん導入され、国際社会での競争を旗印にどんどんアメリカをまねた制度を日本は取り入れてきたように思います。それと共に、儲かりさえすればいい、自分さえよければいい、という感覚を持つ人も、ずいぶん増えてきたように思えるのです。

 確か1980年前後に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本が出て、日本は先進国のかかえる問題点をうまくクリアーしていると評価されていたのに、日本はその成功していた方程式をなぜか放棄して、アメリカをまねた政策へと転換していったように思います。

 果たして、その転換が良かったのか私には分かりません。しかし、アメリカの制度やアメリカでの考えを日本に持ち込むことによるメリットもあったのかもしれませんが、確実に日本人・日本の社会が持つ良さも失われていったように思えてなりません。

 法律家の養成制度として、アメリカをまねたロースクールが実施されてもう4年以上になりました。最近の司法試験合格者の傾向として、ビジネスロイヤー志向が非常に強まっていると司法研修所教官から指摘されています。

ビジネスロイヤー志向といえば聞こえは良いのですが、要は金儲け主義が強まっているということです。

 アメリカのように弁護士をロースクールで大量生産してしまって、法律を如何にビジネスとして最大限に利用するかを考える弁護士が激増した場合、本当に日本の社会は良くなるのでしょうか?

 そんなにアメリカ流が良いのでしょうか。

少年事件と接見(面会)

 少年が身柄を拘束されている少年事件において、意外にも相当数の親御さんから聞かれるのは、「面会のときに、うちの子と、どんな話をしたらいいのでしょうか」 という質問です。

 基本的には、「どのような話をしても結構ですよ、思うとおりにお話し下さい。」とはお伝えするのですが、どうもその答えでは、安心されない親御さんもおられるようです。

 身柄拘束されている少年は確かに非常に不安であることがほとんどです。鑑別所などでは時間の制限もありますし、少しでも実のある面会をしたいというお気持ちは、親御さんとして当然でしょう。

 しかし、私の経験からいえば、面会に行ってあげるだけで、少年には、親の愛情が十分に伝わっていることが多いものです。そして、少年の側としても、「あんなひどいことをして親に見捨てられるかもしれない」と考えているところに、親御さんが面会に来てくれれば、実はとても自分に愛情をかけてくれていたことに気付くことも多いのです。その面会で少年の不始末に対して一方的に非難する内容の話しかできなかったとしても、忙しい中、時間を割いて面会に来てくれる親の顔を見るだけでも安心する子は多いですし、悪いことをやったという自覚もありますから、非難だけに終わってしまっても、その面会だけで大きな問題が生じることは、あまりないように思います。

 何らかの問題があるので、少年事件になっているはずです。その問題は少年自身にあることも多いですが、場合によれば周囲にも問題点が隠れていることもあります。問題点を一緒に探す方向での話ができればベストでしょうが、そこまで行かなくても、少年は親の愛情を感じるだけでも立ち直りのエネルギーを生み出せることがずいぶん多いようなのです。

 あまり、欲張らずに、一緒に歩こうという気持ちで面会されれば、結果的にうまくいくことが多いのかもしれませんね。

マスコミの取材

 先日、私が当事務所の久保弁護士と共同で弁護した、ある刑事事件の判決があった。

 残念ながら、執行猶予のつかない判決だった。

 判決言渡し後、裁判所から出ようとする私に対して、新聞数社より事件について質問等があった。申し訳ないのだが、私は、大きな民事事件で勝訴した際の記者会見とは異なり、質問に具体的に答えることはしなかった。 第一次的には弁護士には依頼者のための守秘義務があり、刑事事件に関する質問は、私に弁護される立場にある被告人の微妙な情報に触れる危険性が高いからである。

 もう一つ理由がある。確かに被告人は、犯罪を犯してしまった。それは許されないことではあるし、被告人はその犯罪の責任は取らねばならない。しかし犯罪とは全く無関係で、被告人の帰りを待つ家族・親族もいる。自らは何も悪くはないのに、被告人の帰りを待ち望み、被告人の与えてしまった被害回復のために、それこそ、必死に活動される家族・親族の方もいるはずだ。

 そのように必死に努力してきたかもしれない方々が判決を聞き、非常に落胆している状態であろうことを知りつつ(又は知り得べき状況で)、判決についてどう思うか、控訴するのか、控訴理由はどうするのだ等と判決直後の公の場で質問するのは如何なものかと思う。

 確かに、読者や国民の知る権利に奉仕する観点からマスコミが取材しようとするのは分かるし、何の取材もせずに判決だけから憶測混じりの記事を書かれるよりはマシのようにも思う。

 それに、マスコミの方がこのような取材を弁護人に行うということは、これまで弁護人がマスコミの取材に応じてきてしまったという前例があるからなのだろう。もちろん、被疑者・被告人が情報を発信して欲しいと願っているのであれば、守秘義務に反しない限度で弁護人が情報をマスコミの方に流すことはあるかもしれない。しかし、私がテレビなどで報道を見聞する際に、果たして本当に被疑者・被告人が情報を流して欲しいと希望しているのか疑問の余地がある場合でも、弁護士が情報をマスコミに提供してしまっているのではないかと思える場合もある。

 この点では、刑事弁護を担当する弁護士の側にも反省すべき点があるのかもしれない。

ぐんじょう色

 普段何気なく使っている言葉でも、実は深い意味があったのだと突然気付くことがたまにあります。

 先日、ぐんじょう色のことを「群青色」と漢字で書くと知りました。小さい頃、私の12色の色鉛筆セットの中には入っていませんでしたが、同級生が持っていた色鉛筆の24色セットなどで、「ぐんじょう色」という色があることは知っていましたし、大体の色調も解ってはいました。

 昔の記憶から、なんとなく、「ぐんじょう色とは、こんな色だろうな」「こういう色をぐんじょう色と呼ぶのだろうな」と分かってはいたのですが、「群青色」と書くと聞いて、群青色の意味が初めてよく理解できたような気がします。

 その名の通り、ぐんじょう色は、青が群れている色なのでしょう。青が集まって深い青となる。その色です。

 しかし、おそらく、その青い色の集まりは魚の群れのように乱雑なものではなく、整然とした集まりにちがいありません。物理的にはともかく、感覚的に言えば、微かな空の青さが整然と幾重にも重なり、漆黒の宇宙に向かって垂直に積み重なっていく過程があるのではないかと私には思えます。

 そして、その微かな青の集まりにより、次第に深まってゆく青い色達のうち、ほんの一部分だけが群青色として呼ばれるに値する色になれるような気がします。

 誰が表現したのか知りませんが、群青色とは、素晴らしい表現です。

 ひらがなで表現しても、その素晴らしさは気づけないでしょう。色鉛筆にもできれば漢字で「群青色」と記載して欲しいなと思いました。 

「ごろごろにゃーん」  長新太 作

 私の実家では、私が小さい頃から福音館書店の「こどものとも」「かがくのとも」を定期購読していました。福音館書店は非常に素晴らしい絵本を数多く出版している会社です。どの子供も、絵本は大好きですが、私も例に漏れず、絵本が好きでした。

 好きな絵本はたくさんありますが、異彩を放っていたという面では、長新太さんの「ごろごろにゃーん」に勝る絵本も少ないと思います。

 たしか、最初と最後のページ以外は、「ごろごろにゃーん、ごろごろにゃーんと、ひこうきはとんでいきます。」という文章の繰り返しです。ページをめくってもめくっても、相変わらず「ごろごろにゃーん、ごろごろにゃーんと、ひこうきはとんでいきます。」の繰り返しなのです。

 おそらく、子供に読み聞かせるお母さんの側に立てば、すぐに飽きてしまう、文章でしょう。

 そんな絵本なら、子供も飽きてしまうのではないかと思われるかもしれません。しかし、決してそんなことはないのです。猫たちを乗せた飛行機は様々な冒険に巻き込まれます。ページをめくれば、前のページとは違う、新たな冒険が描かれているのです。子供達は、その冒険に夢中になるのです。

 このように子供達が、絵本の絵の力によって、夢中で冒険しているときに、むしろ言葉による説明は邪魔であると、長新太さんは考えたのかもしれません。だから、敢えて分かりやすく簡単な言葉の繰り返しで、子供達の想像の翼をじゃましないように配慮されたのではないでしょうか。子供達は「ごろごろにゃーん・・・・」と繰り返し読み聞かせてくれる、お母さんの暖かく柔らかい声音を聞き、その声に安心しながら猫たちと冒険できていたのではないかと、今になって思います。

福音館書店・840円

やっぱりひどいと思う国選報酬

 ある会社員の方が、得意先を回る際に、「会社から8キロ以上遠方でないと、地下鉄代も出さないよ。」と会社から言われたら、8キロ以内の得意先に徒歩でまわる気力が出るでしょうか?

 仕事のためにどうしても必要なコピーを、やむを得ず自分が費用を出して行い、その費用を会社に請求したときに「コピーなんてせずに、見て覚えてくればいいだろう。コピーしちゃったらしょうがないけど、そのコピー代も君の給料に含まれているから、200枚を超えた部分のコピー代しか出さないよ(200枚までは自腹を切れよ)。出すとしても、君がコピーにかかった費用の半分以下しか出せないよ。」と言われたら、いくら仕事に必要だとしてもコピーを取る気がするでしょうか?

 さらに、仕事にどうしても必要な郵便を出す場合に、その郵便費用も全て自腹とされたらどう思うでしょうか?

 しかも、上記のようなとんでもない得意先回り・コピーが必要とされる仕事を一生懸命やればやるだけ、他の仕事がきつくなる上、なんとか成果を上げても評価されないとすれば、会社員の方は、やる気が出るでしょうか。

 実は、上記のことは全て国選弁護に当てはまるのです。

 国選弁護では、交通費は報酬に込みとされており、8キロ以上の交通費でないと支給されません。8キロ以内は「地下鉄もバスも贅沢だ、歩け!」と言うことのようです。

 また、被告人にとっては接見(面会)は唯一の外界との接点であり、弁護方針等を決めるためにも非常に重要な行為ですが、8キロ以上の遠方でないと交通費も出ない、どれだけ時間がかかっても評価されないのです。時間をかければかけるだけ、充実した弁護のために接見をすればするだけ、弁護人が損をする(自腹を切らなければならない)仕組みになっています。

 刑事記録の閲覧権は弁護人にありますが、閲覧するにも検察庁に出向く必要があり、その交通費も出ません。

 きちんと刑事弁護しようと思えば、刑事記録のコピーは不可欠ですが、 コピーは特定の業者しか扱っておらず、なんと一枚42円もします。しかも否認事件など特殊な事案でない限り、200枚を超える部分のコピー代金につき一枚20円が支給されるだけです。

 つまり、仮に350枚のコピーが必要であった場合に、弁護人が負担するコピー代は350×42=147000円ですが、国選弁護で支給されるコピー代金は、(350-200)×20=3000円です。つまり11700円を弁護人個人で負担しろということなのです。

 お金のない被告人がお詫びの手紙を書いて、弁護人を通じて郵送して欲しいという依頼してきた際に、弁護人が被告人の弁護に必要と考えて、お詫びの手紙を郵送する切手代すらも、国選弁護では出してもらえません。

 このように、国選弁護は良い弁護をしたければ、弁護人に自腹を切れということに制度上なっています。

 それでも、成果が上がったときに評価してくれるのであれば、まだ救われますが、どれだけ沢山の事務をこなしても、求刑からどれだけ減刑させても、評価にはつながらないようです。私の今回の国選弁護では、追起訴が4件もあり、合計で事件数は5つになりました。単純に考えれば、事件数が一つの場合の5倍の手間がかかっています。求刑だって検察庁が法律を適用し、求刑相場にしたがって、行われるものであり相当の根拠があります。その検察官の求刑(5年)から、半分に減刑させ、未決勾留日数も90日算入してもらえました。被告人は実質2年3ヶ月の刑になったのです。

 しかし、それでも、評価の対象にはならないそうなのです。

 どれだけ自腹を切って、頑張って時間をかけて弁護をし、なんとか良い結果を出したとしても、何の評価もないのであれば、やる気は当然失せていくでしょう。

 私は、税金で育ててもらったという思いがあるので、まだ国選弁護をやってはいます(但し、現在では積極的に受任するわけではありません)が、あまりの仕打ちにやる気がどんどん失せつつあります。

 一生懸命に弁護している弁護士にとって、国選弁護を黒字の仕事にすることはできないでしょうが(私の経験上、断言できますが、経営者弁護士が国選弁護だけで経営を維持することは、手抜き弁護をしない限り絶対に無理です。)、せめて実際にかかる経費くらいは支給してもらいたいものです。

証拠調査士?

 先日、遅くに夕食をとりながらTVを見ていたら、お名前は忘れたが証拠調査士(?)という人が、様々なトラブルを解決しているという特集をやっていた。

 再現ドラマ風に、いくつかの事例が紹介されるのだが、その中で、身に覚えのない借金を負わされた人の話が出ていた。被害者はまず弁護士に相談に行くのだが、弁護士から「借りていない証拠はあるか」といわれ、途方に暮れるという設定だった。その時点で、「どうして債務不存在確認訴訟を考えないのかなぁ」と不思議に思っていたら、 証拠調査士の人が知り合いの複数の弁護士さんと延々と協議しても妙案が浮かばず、そのなかで、証拠調査士の人が債務不存在確認訴訟を提案し、弁護士がそれは妙案だと感心する、というストーリーのようだった。

 確かに、借りていない証拠(例えば借入開始日に服役中・海外出張中など)があれば、それに越したことはないが、いくらテレビとはいえ、弁護士が何人も雁首そろえて債務不存在確認訴訟に気付かないという設定はあまりにも弁護士を馬鹿にしている、現実離れしたものであった。

 少なくとも、私のまわりにいる弁護士なら、誰だって債務不存在確認訴訟くらいは、すぐ気付く。ただ、弁護士にお願いしてその裁判をやる経済的メリットが、依頼者側にあるかどうかの問題である(例えば、5万円の借金を逃れるために10万円の弁護士費用を支払うのでは意味がないであろう) 。

 いくら再現「ドラマ」でも、債務不存在確認訴訟に気付かないという、弁護士が何人もいたとは思えない。もう少し、真実に近い弁護士の姿で、描いて頂かないとテレビをご覧になった方も誤解してしまうだろう。

 ちなみに、証拠調査士という国家資格は、少なくとも私の知る限り、日本にはない。

どっちが良いのか・・・・?

 ある日、S弁護士は京阪電車の駅を出て、自宅に向かっていた。

 時刻は22:40を過ぎており、雨がそぼ降る晩だった。何となくお腹の調子も良くないので、急ぎ足で横断歩道を渡るS弁護士の視界に、地図を片手に辺りを見回す外国人がいた。迷っているかもしれないな、とS弁護士は直感した。

 S弁護士は、これまでなぜか人に道を聞かれることが多かった。海外で外国人から道を聞かれてしまったこともあるくらいである。しかし、いまは駄目だ。お腹の具合もあるので、できれば早く帰宅したかった。「頼む、俺に聞かないでくれ。後ろから来ている学生風の女性の方が絶対、英語通じるぞ!俺なんかに聞くなぁ-・・・・!」と祈りつつ横断歩道を渡った。

 「アノー、スミマセン、バスストップドコデスカ?」

 苦しいときの神頼みは駄目だった。後ろをさっと通り過ぎる学生風の女性。もう助け船は来ない。ここで、外国人を無視することも、途を知らないふりをすることも、日本語が分からないふりをすることさえもできた。しかし、やはりS弁護士は弱かった。

「バス停ですか・・・・。あっちにあるんですけど。」とバス停のある方向を指さすS弁護士。しかし、たまたまそこは京阪電車の地上出口が視界を塞ぎ、バス停はこちらからは直接見えない。首をかしげる外国人。

 溺れる者は藁をもつかむというが、おぼれている人は、藁と分かっていてもその藁を簡単には手放さないのだろう。その外国人もS弁護士を容易に解放しない。

 「ヨンバンノバス、カミガモジンジャ、イキタイノデスガ」

 バス停の場所を聞くよりも要求がエスカレートして来ている。このままではまずい。お腹の調子からしてタイムリミットはそう長くはないはずである。

 「そんなん、わからへんわ。大体、俺は市バスをほとんど使わへんのやから。分かるわけないやろ!」と心の中でぼやきつつ、S弁護士の口から出る言葉は、S弁護士の心の中を裏切る。

 「しょうがないですね。バス停まで行ってみましょうか。」

 こんなときに限って信号は赤である。いつもより長く感じる赤信号が変わるのを待ち、のんびり歩く外国人の先を導くように早足で、バス停に向かうS弁護士。果たして、バス停には市バス4系統の表示があった。

 「ほら、ここでいいでしょ。」

 「オー、ヨンバン、ヨンバン、アリマス」

 よかった、これで解放される・・・・・。と思いつつバス停のバス接近表示板をみると、赤い表示が。

 赤い表示には「終了」と書いてある。市バス4系統は既に終了していたのだった。市バス4系統が止まるバス停を、S弁護士は確かに教えてあげた。相手の要望には応えたはずだ。だが、このまま放っておけば、この外国人は帰れない。

 「あ~、残念ですけど、市バス4番はもう終わっていますね。アウトオブサービスです。」

 通じるかどうか分からないが、相手の日本語能力がそこそこあることに期待して、日本語で答える。もちろん、アウトオブサービスで正しいのかも分からない。しかし、思ったよりも日本語が達者な外国人であったようで、すぐに意味を理解したようだ。

 「オワッテル?マア、ドウシマショウ?」

とこちらを振り返る外国人。

 「そんなん聞かれても、知らんがな」(S弁護士の心の叫び)

 さすがに、お腹のタイムリミットが近いS弁護士にも時間的限界が来ていた。

「そうですね、バスがないならタクシーを使うしかないのではないですか。上賀茂神社までは結構距離がありますから。」

と言って、向こうに見えるタクシー乗り場方向を指し示す。そして、「(今思うと、何も悪くはないと思うが)悪いけど、もう帰らせて」と心の中で言って、その外国人と別方向に向かい、早足で自宅に急ぐことになった。

 その後、自宅にたどり着き、ようやく落ち着きを取り戻したときに、S弁護士はつい、考えてしまった。

 あの外国人大丈夫やったかな、バス停に行く前にタクシー乗り場の近くにいたんやから、本当はお金がなかったのかもしれないな、もしそうやったら、どうしたんやろ。

 外国人に声をかけられたときに、分からないふりをして素通りしておけば、そんな心配までしなくてすんだのかもしれない。しかし、バス停まで案内した今の方が心配になってしまう。こんなことなら、聞かれたときに分からないふりをした方が、こんな心配しなくてすんだだけ楽だったのかもしれない。

 どっちが良かったのだろうか・・・・・。

法科大学院の不適合~その2

 法科大学院の適合・不適合の判断については、第三者機関が厳正に行うことになっているようです。その第三者機関は、実は財団法人日弁連法務研究財団、財団法人大学基準協会、独立行政法人大学評価・学位授与機構と3つも存在しています。

 また、どの団体に審査してもらうかについては、各法科大学院が選べるようなのです。第2東京弁護士会がバックアップして作った大宮法科大学院大学は、合格率の低迷が指摘されつつも適合と判断されていますが、大宮法科大学院が評価を依頼したのは、当然のごとく日弁連法務研究財団でした。

 日弁連法務研究財団の理事などには、法科大学院構想に賛成した元日弁連会長などが多数含まれており、第2東京弁護士会がバックアップして作った大宮法科大学院を不適合だと言いにくいと思われる団体です。したがって、少なくとも大宮法科大学院を評価するには適していない団体だと、私個人の目には映ります。中立的な第三者による厳正・公正な判断をすべき場面であるからです。他の法科大学院においても、自らの大学の出身者が重鎮を占めているような団体を探して、評価を依頼している可能性が捨て切れません。

 また、日弁連法務研究財団では、どのような評価基準で適合するか否かを判断するかについての解説まで、HPに公表されているのですから、これはもう、答えを教えてテストをするようなものだと思います。

 さらに、その評価基準を見てみると、どのような設備・カリキュラム・制度・教授陣を有し、いかなる授業を行って評価しているのかという、形式的な面が中心です。法科大学院が、「旧司法試験合格者の前期修習終了レベルまで学生を教育できる、そのような実力を身につけた学生しか卒業させない」という前提で、司法修習制度も変更されたのですから、実際どれだけの法的知識・リーガルマインドを身につけたかについても(新司法試験の合格率でしか判断できないかもしれませんが)当然評価すべきですが、それについては私が評価基準を見る限り評価の対象外となっているようです。

 これはおかしいと思います。

 なぜなら、そもそも法科大学院の目的は、立派な教室を作るとか立派な教授陣をそろえるとか、立派な講義を行う、というものではないからです。法科大学院の目的は、優秀な法曹(候補者)を育てることにあるからです。

 どんなに素晴らしい校舎・教授陣・カリキュラム・講義が可能であっても、学生に優秀な法曹(候補者)としての実力を身につけさせることができなければ、法科大学院として失格=不適合とすべきことは、その目的からいって当然でしょう。

 誤解を恐れず簡単に言えば、どうも法科大学院評価機関は、例えは悪いかもしれませんが、最新式のオートメーション工場があるだけで適合、町工場であればそれだけで不適合、と判断しているような面が感じられます。たとえ同じ製品の品質が町工場の方がはるかに高く、オートメーション工場で不良品が多発していても、それは評価の範囲外としているように思われます。

 法科大学院自体問題がありますが、その評価の制度も問題がありすぎる制度のように私には思えるのですが・・・・・・。(続く)

法科大学院の不適合

 先日、いくつかの法科大学院が不適合であると、認証期間から指摘されたというニュースが流れていました。法科大学院を厳正に評価するための機関が、いくつかの法科大学院に問題があると指摘したということです。

 その内容は、朝日新聞社によると、「京都産業大では、理解が不十分な学生向けの「補講」などで授業時間が実質的に上限を超えていたほか、出欠をとらない授業もあった。東海大は、単位数に含まない「自主演習」の形で司法試験に出題される基礎科目を教えており、「基本的な制度設計に誤りがある」と指摘された。山梨学院大は、定期試験の不合格者が受ける再試験に全く同じ設問を出すなどの問題があった。」とのことのようです。

 山梨学院大学の措置は、再試験にも全く同じ問題を出すなど、答えを教えて再試験をするようなものです。厳格な修了認定という法科大学院の建前からすれば、極めて大きな問題を残すので、やはり問題でしょう。

 しかし、私から見れば、京都産業大・東海大はなぜ不適格なのか若干疑問があります。理解不足の学生に補講を行うことは授業時間が多すぎる、基礎科目を自主演習として教えたことは司法試験対策だから問題がある、というのが不適合の理由のようです。

 学生の自主的勉強の時間を取るために法科大学院では講義時間(単位)の上限を定められているようですが、理解不足の学生に教えることは理解不足の学生が自主的に勉強するよりも効率的なはずでしょう(もし学生の自主的勉強の方が効率が良いのであればそもそも法科大学院は不要なはずです)。また、法科大学院の目的は質の良い法律家を育てることだったはずですから、学生の自主的な勉強時間を確保しても法律実務家としての力が身に付かないのであれば意味がありません。学生の自主的勉強の時間が減少しても、法律実務家としての実力が身に付けば良いはずです。質の良い法律家を育てようという目的のために、法科大学院という手段を作ったものの、今では、法科大学院という手段を維持することが目的となってしまい、質の良い法律家を育てるという、そもそもの目的が見失われているとしか思えません。

 また、日弁連法務研究財団の法科大学院評価基準によると、法科大学院として適合するためには、「授業科目が法律基本科目、法律実務基礎科目、基礎法学・隣接科目、展開・先端科目の全てにわたって設定され、学生の履修が各科目のいずれかに過度に片寄ることのないように配慮されていること。」とされており、法律基本科目とは、憲法・行政法・民法・商法・民事訴訟法・刑法・刑事訴訟法に関する分野の科目をいう、となっています。いずれも新司法試験に必要な科目です。

 しかし、法律基本科目を身につけるだけでも大変です。よほど大学在学中に勉強した人や、異常に頭の良い人をのぞけば、法律基本科目を司法修習に耐えうる程度まで理解するだけでも、3年くらいかかってもおかしくありません。数学や物理に早熟の天才は存在しますが、法律学には早熟の天才がいると聞いたことがありません。このように法律を学ぶには、才能よりも、努力や積み重ねが重要なのです。
 法律解釈の基礎や民事法・刑事法の基本を理解していれば先端科目はその応用で対応できる場合がほとんどです。しかし、民事法・刑事法の基本が理解できていないうちから先端科目を教え込まれても理解不能です。
 それにも関わらず、適合基準を守ろうとすれば、法科大学院では法律実務基礎科目や、基礎法学、先端科目まで履修を求められるのですから、掛け算・因数分解も十分理解していないうちから、微分積分をたたき込まれるようなものです。

 民事法・刑事法の基礎ができているが先端科目は知らない新人弁護士と、民事法・刑事法の基礎はあやふやだが先端科目の知識を少し持っている新人弁護士とでは、実務家として明らかに前者の方が優れています。いざというときに基本に戻って考えることができるからです。

 (詳しい事情は不明ですが)善意に解釈すれば、京都産業大・東海大は法科大学院生といえども、その実力不足に驚き、「良い法曹を育てるためには基礎を十分教えておく必要がある」との強い懸念を持って、法律基本科目を身につけさせようと努力していたと言えるのかもしれません。

(続く)