豊かな人間性を教えることができるのか?

 中教審法科大学院等特別委員会では、プロセスによる教育の理念等、未だにほぼ20年前に定められた司法制度改革審議会意見書に取りすがった議論がなされているように見える。

 今から見れば、そもそも法曹需要の飛躍的増大が見込まれる、という出発点が完全に誤っており、その誤った出発点を前提に構築された改革意見書ということになるので、その意見書に取りすがる姿は、私から見れば、もはや滑稽でもある。

 以前も言ったことがあるように思うが、豪華客船が航海している際に、今年の冬は特に寒く、現に氷山もいくつか見られるので、進路を変えるべきだと現場の航海士が進言しているのに、船長が「20年前に決まった航路なので、変更することは理念に反する。決められた通り、高速で運行せよ。」と言い張っているようなものである。そういう主張を、当代一流の学者が、法科大学院制度維持のために主張し続けているところが泣けてしまう。

 司法制度改革審議会の意見書内で、法科大学院の教育理念について触れた部分があり、そこには以下のような指摘がある。

「法曹に共通して必要とされる専門的資質・能力の習得と、かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養、向上を図る。」
 

 考えてみれば、ものすごい記載である。法科大学院では、「かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養」、ができるようにするってことである。

 私事になって恐縮だが、私は、関西学院大学の法学部で10年以上教えているし、大学院の法学研究科でも教えているが、いくら大学生・大学院生とはいえ、自分で勉強しようという気持ちにならないと、何にも身につかないと思っている。

 よく、馬を水飲み場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできないというが、勉強においても同じことだと感じている。

 したがって、私もそうだったが、学生さんに無理やり勉強しろと言っても、勉強するわけではないし、学生さんだって就職活動や、恋愛や、クラブ活動に忙しい。そんな中で、いやいや勉強させてもほぼ身につかないので、その点については残念ながらあきらめているといってもいい。

 あきらめているとはいえ、講師として、さじを投げているわけではない。ひょっとして法律って面白いかもしれないね、と思う気持ちの種だけは撒けないかなと思って演習を行っている。

 ひょっとしてこれは面白いかもしれないと思えば、自分で勉強する気になる可能性が出てくるし、勉強する気になって自ら勉強を進めていくうちに、「ん?こいつは面白いとこあるやん?」と思えれば、しめたものだ。
 ゲームにはまる人を見ればわかると思うが、人間って生き物は、面白いと思うことついては、睡眠を削ってでものめりこんでしまうものだし、面白いことであれば頭も働く。もちろん理解も早いし記憶もしやすくなる。

 私は、できるだけ面白いかも?と思えるような題材を提供できないかと思って演習をするよう心掛けている。学者(学説)の対立構造、裏話、法律それ自体ではなくても法律関連で面白いことがあれば、こいつは面白いかもと、興味をそそらせることができるかもしれないからだ。

 よく、法律なんて血も涙もないと、言う人もいるが、民法の条文をみれば、様々な利害対立を解決するために、ある時は動的安全に重きを置き、またある時は静的安全との調和を図るなど、その裏側にある立法趣旨は相当人間臭い価値判断から来ているものもあるのだ。

 私は自分自身の経験から言っても、教師にできることって、対象に興味を持たせ、学生が自分で勉強していく手助けを行う、その程度だと思うのだ。

 もちろん教える立場にある以上、できることはその程度といっても、私としては質問については、可能な限り誠実に答える。わからない質問にはわからないと答えて、調べて回答できるならそうするし、調べてもわからない場合はどこまで調べたかを伝えて、分からなかったことを正直に答える。誠実さは失ってはならないと思っている。

 私は、自分自身が大した人間ではないことは、わかっているつもりなので、豊かな人間性や幅広い教養などを学生に教えることは到底できない。
 また、少なくとも私が学んだ京都大学では、「私の持っている豊かな人間性を学べ!」などと恥ずかしすぎる態度をとる教授など皆無だったし、今でもそんな、オタンコナスの教授は、いるはずがないと信じている。

 もちろん、それぞれの先生には、それぞれの生き方があったわけで、その先生に魅力的な生き方や人間性があると思うのなら、それを取り入れることは学生さんの自由だ。
 しかしそれを、個々の学生に強要してはならないと私は思う。仮に、大学教授が「自分には豊かな人間性がある!」と、恥ずかしすぎる(ある意味傲慢な)信念を持っていたとしても、それは自分だけの思い込みで、周りが見えていないだけの完全な独善かもしれないじゃないか。

 そもそも豊かな人間性や教養など、学生が自らの努力・経験などから獲得したり作り上げていくものであり、誰かが教えたところで身につくようなものではないと思う。
 仮に万一、豊かな人間性を大学で身に付けさせることができるのであれば、高等教育機関を経た人間は全て素晴らしい人間性を持つということになるだろうが、そのような事実がないことは、誰だって分かる。

 偉そうに人間性など教えようとする人間こそ、人間性を欠いている場合が多いように私は思う。

 以上の私の経験からいえば、法科大学院に通わないと人間性が豊かにならないとか、予備試験を目指す学生の心が貧困であるなどという発言があるとしたら、それは、自分のできることを過大評価しすぎた思い上がりの発言だとしか思えない。

 そういう思い上がった発言をする教師の下で、長期の法科大学院生活を送らなければならないとするのなら、それはとても不幸なことではないだろうか?

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