思い違いをしていたこと

 つい最近まで、何となくだが、思い違いしていたことがある。

 それは進化についてのことだ。

 例えば、どうしてキリンの首は長くなったのか?と聞かれたときに、私は、「キリンは、高い木に茂った葉を食べるために長い首に進化した」、とつい考えてしまっていた。確か、テレビの動物番組でも、「○○という動物はこのような苛酷な環境に適応するよう進化してきました」等とナレーションが入ったりするので、つい、生き物が環境に適応するよう進化してきたと思い込んでいたのだ。

 実は違うようだ。

 考えてみれば当たり前のことだが、キリンが「首が長くなればいいなぁ、首さえ長くなれば高いところにある葉っぱが食えるのになぁ」、などと思って、何世代にもわたって進化の方向性を決定づけ、自らの子孫について次第に首を長くしていくことができたはずがない。
 「この苛酷な環境に耐えられれば天敵がいないのに」と、ある動物が考えて、その苛酷な環境に耐えられるよう進化していったはずもない。

 つまり、キリンの例で言えば、遺伝子がコピーミスすることによって生じる突然変異の結果、首が長くない両親からたまたま首が長いタイプのキリンが生まれ、その環境で首が長い個体がたまたま生き残りやすかったため、生存競争のなかで首の長いタイプが多く生き残り、何世代も子孫を残していく過程で、首の短いタイプは消えていっただけなのだ。

 言ってしまえば実も蓋もないのだが、全ては偶然の遺伝子のコピーミスから生じ、結果的にその突然変異の特徴を持つ個体が、その突然変異が生存に有利に働く環境下にいたため、たまたま生き残り、その特徴を維持・発展する結果になった動物を、後から見て「進化してきた」と呼んでいるだけなのだ。

 つまり、進化とは、徹頭徹尾偶然の産物であり、徹頭徹尾結果論ということになるのだろう。

 確かに遺伝子のミスコピーが生じないのであれば、生命も産まれなかったかもしれないし、仮に生まれたとしても、遺伝子のミスコピーが生じない以上、ずっと同じ原始的生命体のままだっただろう。

 そう考えると気の遠くなるくらいの遺伝子のコピーミスによる、生命の試行錯誤?の上に、今の生物たちがいるということになる。

 例えば犬などは、人間がある特徴が顕著な犬を人為的に交配させるなど、少し手を加えたりしたため、もともとオオカミだったはずの犬が、今や、オオカミとは似ても似つかぬ姿になっていたりする犬種も存在する。このように少し手を入れるだけで随分と違った形質を有する生物が生じるのだから、遺伝子のコピーミスによる生命の試行錯誤は、単なるコピーミスで片付けられないほどダイナミックなものなのかもしれない。

 命というものの、不思議を感じずにはいられない。

 このように、理屈の上ではおそらく、進化はあくまで結果論ということになるのだろうが、人間に関しては、私は、少し違うような気もしないではない。

 日本人の体型は、大きく変化し欧米化していると聞いたことがある。私の見る限りだが、顔立ちも(整形や化粧といった要素もあるだろうが)かなり欧米化する傾向にあるようにも思われる。

 仮に顔立ちの欧米化が認められるとしての話になるのだが、確かに体型変化には、栄養状態の変化や食べ物の欧米化で説明もつくだろう。しかし、それだけでは顔立ちの欧米化は説明できないように思われる。

 女性の美しさに対する強い思いなどを見ていると、結果論だけの進化ではなく、生物の強い思いによる変化も(進化かどうかは別にして)あったりするのではないか、と想像してみたりするのだが、想像が過ぎるだろうか?

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